未来ユメ日記 by GG

夢、ゆめ、ユメ。未来に向けてユメを語ろう。教育・テクノロジー・地球の未来・歴史・ドラゴンズ・・定年退職を迎えた2012・4・1から、未来に向けてユメを紡ぐ

カテゴリ : 本地ケ原物語

 誰かの文章にあったのかもしれない。
 あるいは自分が、ローカル線で走ったときにふと感じたことなのかもしれない。

 「日本中どこへいっても、どんなに鄙びた集落にもその風景としてなくてはならないものがある。それは、小学校とお寺である。
 よほど廃仏毀釈を徹底したところや神道が主流の地域は別として、日本人の住むところを絵に描くときには小学校とお寺は風景として必需品なのである。少なくとも墓地はある。」

 ところが自分が勤務する小学校の地図を眺めていて、この学区にはお寺が無いことに気がついた。墓地もない。
 10年ほど前に名古屋市外から移転してきたお寺はあるが、しかしここに住む人々のための、お彼岸や命日に訪れる墓地やお寺はここにはないのである。

 「この校区にはお寺がありませんね」と苅谷さんに訊ねると、「そうだねえ、お寺はないねえ」との答えが返ってきた。
 「昭和20年からの開拓地であったとしても、お葬式はあったのではないですか」と、やや聞きにくいことを伺うと「お葬式はね印場や長久手にいってしたものですよ」とのこと。
 「お墓はね、実はあったんだけれどね・・・」と三浦さんは語り始めた。
 墓地はあったが、その地域を企業に売り渡したのでお骨を掘り起こして納骨堂に納めた。その納骨堂も今はなく、市の集合墓地にさらに埋葬した。
 この企業こそトキワ産業であり、納骨堂はトキワ産業の寄付によって建てられた。

 こうした一つ一つの出来事を出来れば年月日まで調べておきたいと考えている。

 なお、かの墓地は県に無届で自主的につくられたものであったとのこと。
 また、そこに葬られた人は開拓に骨折った年長者だけではなく、両親が農作業中に肥溜めに転落して亡くなった幼子も含まれていたとのこと。
 古老の懐古談を聞くつもりが、悲しい思い出までもを掘り起こさせてしまった。
 

本地ケ原への入植前の土地所有
 昭和24年12月末の、本地ケ原の未墾地は291.9ヘクタールである。
内、村内個人が4.9,村外個人が7.9ヘクタールを所有しているが、その他284ヘクタールは軍が所有していた。
これは小幡ケ原、森孝とともに、特徴的なこと。
 他地区は、共有地や個人所有地が多い。

経済復興期
 昭和25年度における開拓事業の運営方針について(昭和25年4月26日 農林省農地局長)
 農地法(昭和27年7月15日)

高度経済成長期
 開拓営農振興臨時措置法(昭和32年4月6日)
 開拓事業実施要綱の制定について(昭和33年5月27日農林事務次官)
 農業基本法(昭和36年6月12日)
 開拓パイロット事業実施要綱等の制定について(昭和36年8月8日)
 旧制度開拓による入植者に対する振興対策の今後の取り扱いについて(昭和44年10月7日農林事務次官)
 開拓営農総合調整事業にかかる基本方針(昭和45年2月22日愛知県)

 昭和45年に旧本地ケ原神社が作られたとき、その境内に納骨堂が作られた。
 航空写真を見ると六角形の屋根のお堂のようだ。
 それは後に神社が建て替えられた時に廃止された。

 開拓地の東の端のやや小高い土地に墓地があった。
 それは開拓者たちの作ったもので、昭和20年冬以降に亡くなった人たちの眠る墓地だった。
 なぜならば、それ以前には、この土地には誰も住んでいなかったからだ。

 昭和40年代の中頃、製紙会社が用地を買収した。
 この買収地の中に件の墓地があった。
 製紙会社は納骨堂を寄付して墓地を解消した。

 神社の中に納骨堂があるというのもおかしな話だが、神社が再建されたときに取り壊された納骨堂に納められてあったお骨は、どこに改葬されたのだろうか? 

○ 緊急開拓期の法令

 農地開発法は昭和16年3月12日に公布された。
 この法律は昭和24年6月6日に失効している。

 緊急開拓事業実施要領は昭和20年11月9日に閣議決定された。
 方針「終戦後の食糧事情及び復員に伴う新農村建設の要請に即応して大規模なる開墾、干拓、及び土地改良事業を実施し、以て食糧の自給化を図るとともに離職せる工員、軍人その他の者の帰農を促進せんとす」

 その他、関連法や関連部署の設置。
 農地調整法、開拓課の設置(愛知県は昭和21年4月9日)、県開拓指導所の設置、自作農創設特別措置法、農地部の設置(愛知県は昭和21年11月18日)、緊急開拓入植者取扱要綱(愛知県は昭和22年4月1日)、開拓地農村建設方針(昭和22年8月農林省開拓局)、開拓事業実施要領(昭和22年10月24日)、土地改良法(昭和24年6月6日)。

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