未来ユメ日記 by GG

夢、ゆめ、ユメ。未来に向けてユメを語ろう。教育・テクノロジー・地球の未来・歴史・ドラゴンズ・・定年退職を迎えた2012・4・1から、未来に向けてユメを紡ぐ

カテゴリ : 本地ケ原物語

 むかしむかしこの本地ケ原一帯はうっそうと茂った「白山」とよばれた森でした。
 この白山には一人の天狗が住んでいて「なまけ者はいないか、泣き虫の子はいないか」とさがしていました。
 村の人たちは泣いてばかりいる子や、ひどいいたずら坊主に「そんな子は天狗がさらっていくぞ」と言ったものでした。

 あるひ天狗は猿投山に急用があって出かけることになりました。
 ひとっ飛びに飛んでいくには少しばかり遠いので、がけの上にあった石を踏み台にして「えいっ」とばかりに飛んでいきました。
 その時いつもより強く踏んだので、石の上にかかとがめりこんで、あとが残ってしまったということです。

 その時の岩が「天狗のかかと岩」です。
 昭和50年ころまで長坂町の矢田川の南のがけにありましたが、本地ケ原一帯が住宅地になっていくと、本地ケ原神社の境内に移されました。


 なおこの本地ケ原神社は、今の白山の山の上にあった白山神社を再建したものです。
 大昔に祀られてその後忘れられ、明治の頃からは稲葉と本地ケ原の守り神であったものが、昭和45年に本地ケ原神社として再建されました。


 この岩、7世紀ごろに作られた市内で唯一の横穴式の「天狗岩古墳」の天井石のひとつだったと考えられています。

 このあたりの数字は、愛知県開拓史という本から転載させてもらっています。

 それによれば、本地ケ原開拓地では、昭和31年までに道路17.9キロメートル、送電2キロメートル、送排水菅3.3キロメートルの工事が行われたとのこと。

 また開墾作業については、24年までに畑47ヘクタールが拓かれました。
 その後、33年までに畑98.5ヘクタールと田93ヘクタールが、さらに43年度までに田23.5ヘクタールが拓かれたとのことです。

 ちなみに伊勢湾台風は1959年(昭和34年)、愛知用水の開通は1961年(昭和36年)でした。

 入植施設補助工事としては、24年度までに住宅新築196戸、25年から33年の間に、住宅16戸、教室増築1棟(25年)、分教場2棟(27・28年)、電気導入1戸(33年)、住宅災害復旧34戸となっています。

 そして34年以降とあるのは伊勢湾台風の被害からの復旧が多かったのでしょう。住宅災害復旧50戸(34〜36)、農畜舎災害復旧80(34〜36)、共同作業場復旧3棟(35)、住宅改築2戸、飲用水施設3箇所、電気導入1戸(38)でした。

 教室増築1棟(25年)、分教場2棟(27・28年)とあるのが本地原小学校の揺籃期です。

 飛行場を開墾する作業は、昨日まで突き固めてきた土地を、今日から掘り起こして畑にするということで、180度の方向転換でした。
 それを榊原剛さんの回想のように「昭和十年代の後半にはグライダーの離着陸訓練用の滑走路として使われるようになり、大きなぐり石で押し固められました。後に開梱が進む中で、このぐり石を取り除くのは大変な仕事だったようです」と述べておられます。

 しかもその土地ときたら、次のようにおよそ農業に適さない土地だったのです。

 ○ 立地条件
   開析台地、洪積層、標高40〜50メートル、傾斜0,
   土壌侵食なし、腐植欠乏土、極浅い土層で下層は重粘土。

   土壌分類はIa32213、この意味はIaが、非火山成土、非火山灰土壌の意味。
   あとは、褐色の鉱質土、強酸性、壌質、塩基欠乏、燐酸吸収は小。

 ここへの入植計画の大筋は、
 293.8ヘクタールに150軒を入植させる。
 田は9.3ヘクタール、畑を167.6ヘクタール、薪炭採取地を40.2,宅地18とするというものでした。

 しかし大地には水がないのです。
 田の本格的な実現には、愛知用水の通水を待たなくてはならなかったのです。

○ 入植者の内訳

「愛知県開拓史」によれば、本地ケ原地区への入植者の出身地別、前の職業別内訳は次のようになっています。

 述べ入植戸数は、188戸でした。

 当初の入植者は150戸でしたが、昭和20年から34年以降までに開拓地を離れた戸数が40軒あり、一方追加の入植者が38戸あったため、昭和46年ころの開拓農家は148軒となっています。

 その出身地は、
 尾張旭市・・・11、名古屋・・・75、その他愛知県内・・・70、長野県・・・12,その他の県・・・20の、計188戸となっています。
 全国から集まったといわれていますが、ほとんどが愛知県内の人であったことが分かります。

 では入植した人々の前の職業はというと、
 農家経営者かその長男・・・27,農家の2・3男・・・13、軍人・・・34、自営業・・・19、会社員・・・71,公務員・・・11、その他13の、計188戸です。
 以上のうち、海外からの引揚者は18戸でした。

 軍人というのは、名古屋にあった第三師団の人々ですが、彼らの軍人以前の出身は不明です。その全員が農家出身であったとしても、農家出身者とそれ以外の出身者の割合はほぼ半々と言って良いと思われます。

 主に愛知県出身で、農家出身者が約半数の人々が入植したのでした。

国道363号線

 この国道は、1975年に制定された若い国道です。総距離数は80.2辧

 名古屋市の引山交差点が起点で、途中尾張旭市、瀬戸市、土岐市、瑞浪市、恵那市を通って、中津川市の中村交差点が終点となっています。
 ほぼ全線にわたって、往復2車線以上の快走路が続きますが、土岐市鶴里町柿野付近には往復1.5車線、中津川市川上集落付近には往復1車線の、未整備区間があります。
 名古屋市内では出来町通、名古屋から瀬戸までの区間は瀬港線と呼ばれています。

 この道について荻須勝博さんは、次のように書いておられます。
 【私たちの住んでいる尾張旭市内には国道363号線が通っています。それは「南新町」の交差点からゴミ処理場のある晴丘センターの近くまで約1900メートルで2キロメートルもないほどです。
 ・・・
 国道363号線は、かつては瀬港線といわれ、瀬戸と名古屋港を結ぶ産業道路として発展してきました。
 瀬戸から陶磁器の製品を海外への貿易品として名古屋港から多く輸出されていました。帰り便には陶磁器の原料や燃料などのお運搬にはなくてはならない道路であったといいます。
 だんだんと焼き物だけではなく、食品や日用品関係も多く運ばれているということです。】

また榊原剛さんは、
【江戸時代には「山口道」と呼ばれ、瀬戸の山口へ通じていました。
 明治の終わりには演習場に組み込まれ、民間人の通行は制限されました。
 昭和十年代の後半にはグライダーの離着陸訓練用の滑走路として使われるようになり、大きなぐり石で押し固められました。
 後に開梱が進む中で、このぐり石を取り除くのは大変な仕事だったようです。
 昭和30年代には、瀬戸と名古屋港を結ぶ幹線ということから「瀬港線」と呼ばれるようになりました。
 その後昭和40年に県道守山瀬戸線となり、昭和50年には国道363号線の指定を受けました。
 まさにこの道は本地ケ原の歴史の縮図と言えます。】と書いておられます。

 山口道、滑走路、県道、国道と変遷してきたこの道は、昭和51年から52年にかけて舗装されたようです。
 思うに、他の道の多くが名犬国道、名岐道路、名阪道路、名神高速というように「名古屋の名」を先においているのに対して、この道は「瀬港線」と瀬戸を頭においています。
 これは単に言葉の響きなのか、あるいは瀬戸からの製品の流れに沿ったものなのか、どちらなのでしょう?
 いずれにしても、戦後の復興期に瀬戸からの陶磁器の輸出が我が国の外貨獲得に大きく貢献したことは事実であり、その誇らしさが道路の名前に現れていると思えてなりません。
 だから名古屋では出来町通と呼んで、瀬港線という名前に対抗しているのでしょうか?

このページのトップヘ