未来ユメ日記 by GG

夢、ゆめ、ユメ。未来に向けてユメを語ろう。教育・テクノロジー・地球の未来・歴史・ドラゴンズ・・定年退職を迎えた2012・4・1から、未来に向けてユメを紡ぐ

カテゴリ: ビーナスの腕

 「あなたたちは、何から何を守るつもりなのか?」
 「これはロックアウトだ」
という問いかけに対して返ってきた答えに、皆さんはどう思われるのでしょう?

 ある先生は、言葉もなく下を見ておられました。ためらいがあったのでしょう。

 しかし別の教師はこんなことを言いだしたのです。
 「お前たちを仲間だと思ったことはない。それはここがエリート高校だからだ」「お前たちは今は民主主義とか革命とかほざいているかもしれんが、数年もたってみろ」「官僚になったり、資本主義の手先になったりするんだよ」「お前たちには未来が見えないかもしれない。だが俺には見える」「そうやって、今度は俺たちを見下げて顎でこき使って、あざ笑うような人間になるのさ」

 こうした昨日までとは打って変わった言葉に、生徒たちは「本音」を感じざるを得ませんでした。そこで生まれたのが、当然のことながら不信感です。彼の頭にある学校とは、不良以上に不実な生徒を不本意ながら育て上げるという任務を背負った学校でしかありません。しかし、それを彼は守ろうとしているのです。

 何十年もたって、その彼は「生徒のために」と書いておられます。それは年月がもたらした反省なのでしょうか? それとも虚飾なのでしょうか?

 生徒と教師が鉄格子を隔てて話し合う光景は、まともな情景ではありません。それは刑務所とか鑑別所での面会場面を思い出させます。対立する国同士の国境や動物園を思い浮かべることも出来るでしょう。もっとも動物園では話し合いはありませんが。

 そんな光景が1969年10月には高校の正門で繰り広げられていたのです。
 裏門や通用口も見事に固められていました。格子の中に居るのが先生たち。生徒は道路から中に入れてもらえません。

 「塀を乗り越えるか」という声もありましたが、それは機動隊の導入を招くだけです。中にいる教師たちの発想は「県教委や校長の判断での警察導入は許さない」ので、それが行われる前に「主体的に機動隊を導入しよう」というものだったのですから。
 生徒たちにとってはそんなことはどうでも良いことです。誰が呼ぼうが警察は警察に過ぎません。
 「先生たちは俺たちを敵だと思っているのだ」と誰かが言いました。「彼らにとっての学校って何なのだ?」「奴らは自分のことしか考えていない」と、道路上に放置された生徒たちは気付いていきました。そこで発せられたのが、あの問いです。

 「あなたたちは、何から何を守るつもりなのか?」
 「歴史的にいって、これはロックアウトとしか言いようがないだろう」
 「生徒を立ち入り禁止にして、排除することが正常化なのか?」

 こうした疑問に対して、頑なな回答が鉄格子の向こうから返ってきました。

 抽象的なスローガンが声高に叫ばれる中、妙に現実的な疑問を投げかける生徒がいました。
 「封鎖? やろうじゃないのよ。やりましょう」「どこにする?職員室?」「校長室もいいじゃない」「で、水はあるの?トイレはどうする」「保健室じゃあ、なんだかカッコ悪いよね」、こうなると疑問の山で責めつけるのがS君の特技でした。
 こうなると「そもそも論」とか「あるべき論」はたじたじです。演繹と分析の違いという事です。
 封鎖推進派の諸君は「じゃあ、図書室です」「あそこを拠点にしましょう」
 「分かった。図書室だね」「いいじゃない。でも水道はあるのかなあ」「トイレは、確かにあるよね。四階が妥当というものだね」
 「ありがとうございます。四階の図書館をターゲットにします」
 「でも、待ってよ」「何日間封鎖するつもりかしら」「日数が増えると食料も必要だけど、どうなんだろう。外から差し入れできるのかしらね」
 「それは、支持が集まるはずですから」
 「支持とか連帯とかというんじゃないんだよね」「物理よ。物理的なこと」「良い?四階を封鎖するでしょ」・・・S君の、疑問は延々と投げかけられるのでした。

 ですから封鎖をするかしないかが、学生生徒の側からするととても大切なハードルだったのです。一方、封鎖をいかにさせないかが文部省県教委学校当局の側にとっての課題でした。封鎖があれば紛争校になってしまうのですからそれを防ぐのにやっきになるわけです。

 地方のいわゆるエリート校であると自他ともに認められていた旭丘は「なんでもかでもリードするのが自分たちだ」という潮流というか自覚というような風潮があって、封鎖についてもそう覚悟していたのではないでしょうか。

 言い換えれば、「封鎖はやらないかんだろうな」「自分がやるか誰がやるかは別として」そというようなところまで来ていたのではないでしょうか。

 校長先生や教職員も「いつか来るだろう」と予感されていたのではないでしょうか。
 もっといえば「やるなら、うちがやらねばならない」「うちに違いない」と、みんなが追い込まれていたのではないでしょうか?

 不思議なことに、それぞれの時代の「活動」はいつの間にかパターン化してアナロジカルな軌跡をたどります。

 これは共鳴とか同期といったものなのでしょうか。
 あるいは、活動の権威化とでもいうべきものなのでしょうか。

 当時の大学高校では、特に東大安田講堂以降では、封鎖という言葉が一つのカギを握ることになりました。「封鎖をしないと学園紛争の仲間に入れない」とでもいうように。

 そう考えると活動にはモードとがあり、一定のイニシエーションを経ることによって連帯の輪に入ることができるという共同の論理が働いていたことになります。

 あるいは無意識的に相似行動をとるという習性があるのかもしれません。相対する人の一方が右によけると、他方もそれに合わせて左によけるので二度三度とぶつかりそうになるというあれです。

 問題提起、それに対する無視あるいは反動、封鎖、機動隊導入による封鎖の解除と活動家の排除、正常化という反動の徹底。
 それが当時のパターンでした。

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