未来ユメ日記 by GG

夢、ゆめ、ユメ。未来に向けてユメを語ろう。教育・テクノロジー・地球の未来・歴史・ドラゴンズ・・定年退職を迎えた2012・4・1から、未来に向けてユメを紡ぐ

カテゴリ : 生かす言葉、生きる言葉、イカス言葉

 今日のネットワーク委員会で、言葉を度忘れて困ってしまった。

 こういうことだ。
 「この画面では、選択する前に△○×・にしておいてもらうと便利ですよね」
 「え、なににしておくんですか?」
 「ですから、欠席の殆どは病欠なのですから、予め病欠にしておいてもらえば選ぶ手間が一つ省けますよね」
 「はい、分かりました。そうします」

 この会話の時に、
 「デフォルトにしておきます」といってくだされば、【デフォルト】を思い出したのに・・・と恨み節。

 忘れていたのは【デフォルト】という言葉だった。

 さて・・・
 今になって、なぜ度忘れしたのかが解けた。

 最近の経済記事に、【ユーロ圏諸国のなかから債務不履行(デフォルト)に陥る国が出ることは考えられず】といったような使われかたが多いからだ。

 頭の中で、「債務不履行=デフォルト」と刻まれた瞬間に「規定入力=???」となってしまったに違いない。脳が「別の言葉であるに違いない」と勝手に思い込んだのだろう。


 実は、二つのデフォルトは、同じ言葉だったのである。


◎ デフォルト(default)とは、何もしないこと、あるいは成すべきことが成されないことを意味する。
 各分野で異なる意味をもち、異なる訳し方をされている。
○ 金融
 債務不履行 - 本来履行されるべき債務が履行されなくなること(支払われるべき金が支払われない等)を指す。例えば、国、政府、企業など債券の発行体が、利払いや元本の償還を行えない状態に陥ること。

○ テニス
 棄権 - 主にデフォールトの表記を用いる。リタイアともいう。

○ コンピュータ工学
 デフォルト値 (Default value) - 「ユーザが入力するはずの値に入力が無かった場合に使う為に、プログラム側であらかじめ用意しておく値」のこと。

 オリンピックたけなわだが、解説か応援団かは知らないが、高橋尚子さんの言葉がいちいちうっとおしい。

 「勇気」の大安売りである。

 いつからこの人は「勇気を与える」ことができるようになったのか?
 また日本人選手の活躍に、いちいち「勇気を与えることができた」と評価できるようになったのかとお聞きしたい。
 まるでカリスマではないか。

 ひいきの球団ではないが、巨人関係の記事にこんな言葉があった。
 【2年連続日本一を狙う巨人の桃井球団社長は年頭のあいさつで、「こういう沈んだ世の中に、元気と勇気を与える力が巨人軍にはあるとあらためて実感した。今年もまたそういう巨人軍でありたい」と職員に訓示した。】
 これは悪いとは思わない。
 職員に訓示したのだから、「勇気を感じてもらえるようにしよう」とか「良い試合を見せて、人々に勇気を共感してもらえるようにしよう」といった程度の意味だと思われるからだ。
 これが「巨人が勇気を与えます」と言ってしまったら終わりである。
 せいぜい「みなさんの応援が選手の勇気を呼び起こします」とか、「勇気あるプレーを堪能して下さい」というのが謙虚というものである。

 また「習志野高に勇気を与える“特別な応援”」なんていうのも悪くない。
 勇気を持ってプレーするのが選手だからである。

 それがこの人は「勇気与える走りを」と試合前に言ってみたり、「列島に勇気を与えるレースを約束」したり、「人々に少しでも勇気を与えられたらうれしい」となど平気で言えるし、結果がどうであれ自分で「勇気を与えられた」としゃーしゃーと語れるのである。
 そうじゃないだろう。
 本人は「応援があったので勇気がわいた」「みなさんが勇気を下さった」というのが謙虚というもの。
 そして勝ったときには「みなさんの声援のおかげです」。負けたときには「せっかくの声援で勇気をもらったのに、残念な結果となりました」というのが日本の心じゃないか。

 勇気は応援する人々が与えるもので、というか掻き立てるものであって、選手が与えるものではない。
 そして、勝ち負けにかかわらず果敢に戦う選手の勇姿に、応援しながら共感して「湧き上がる」ものであって、与えられるものではないのだ。

 おやぢは勝利至上主義ではないし、オリンピックで国威発揚をしてくれなどとは言わない。
 しかし選手は勝つために、勝とうとしてして試合に臨んでいるのではないか。
 それが、見事な勝利でも、果敢な闘いの果ての惜敗でも、体制不足・準備不足・練習不足・その他いろいろ不足の完敗でも、「勇気を与えた」「感動した」の連発では勝者に失礼ということが分からないのだろうか。

 勇気を与えられることはある。それはひたむきな競技姿勢からいわば勝手に「与えられる」のであって、「私が勇気を与えます」というべきものではない。
 まして選手を評価するために、「この人は、国民に勇気を与えた」と言えるものではない。
 そんなことをするのは、やっぱりカリスマ志向だな。

 隣町の校長さんから面白い話を聞いた。

 ヨーロッパのスポーツクラブは何を求めているのか? という話だ。

 彼は日本のチームが洗練されるためには「ツとワを引かなきゃだめだよ」という。

 つまりこういうこと。

 強いチームからツ、弱いチームからツをとるべきだというのだ。

 つよいからつをとると・・・よい
 よわいからわをとると・・・よい

 そう、弱いチームから抜け出して強いチームになるのではなく、一人ひとりが成長して、集団でも尊敬されるような、良いチームを目指す。それがスポーツの目標であるべきだという。
 彼の持論である。

 校長会で教育長から細井平洲の言葉の紹介があった。

 細井平洲は、江戸時代中期に活躍した儒学者で、上杉鷹山の師である。

 紹介があった言葉は、「教育とは、菊好きな人間が菊をつくるようにしてはならない。百姓が大根をつくるようにすべきなのだ」というものである。

 何故、菊をつくるようにしてはならないのか。
 菊をつくる人には、自分の理想の菊があって、それに合わないもの、欠点が目につくものを摘み取ってしまうからである。二つか三つのつぼみを残して摘み取り、そのうちのたった一つで大輪の花を咲かせる。

 かたや、農民が野菜をつくる時はどうか。欠点のあるものを捨てるということはない。畝に芽を出したものも、日陰で懸命に育っていくものも、大切に慈しんで育てる。



 原文を紹介する。
 「平生躬行正しと申す内にも生まれつき窮屈片気なる人は人の師には致し難し。人の子を教育するは菊好きの菊を作る様にはすまじく、百姓の菜大根をつくる様にすべきこと。百姓の菜大根を作るには一本一株も大切にし、上出来も、へぼも、よきも、わるきも、食用にたてること。知愚、才不才、それぞれ畢竟よき人にさえできれば宜し」



 菊好きと百姓の話も良いが、「窮屈片気なる人は人の師には致し難し」というくだりも味があって良い。

このページのトップヘ