話がとびました。S君の疑問です。延々と続きます。当時の僕たちは多かれ少なかれ疑問をひねり出して相手に投げかけ、相手の言葉におかしなことがあったりするとそのおかしさを抉り出しといった作業を行っていました。

 それは紛争の場面だったからそうしたのではなく、こうした理屈っぽい生徒たちがそこにはいたのです。一日中がこうした思考作業の山。言い換えれば批判と反批判。ですから天から降ってくるような結論を頑として譲らない態度では仲間に入れなかったのです。男女もない、学年差もない。それが「旭丘民主主義」だと皆が思っていたのだろうと、そう思うのです。

 最近の若い人が「批判」と非難を取り違えていることに驚かざるを得ません。学会の多くにおいても「批判」が遠慮されているように感じますが如何でしょうか?疑問を表明するだけで壇上や平場から白い目で見られるというのは、一種の暗黙のヘイトスピーチで、「私が正しいというから正しいのです」「その質問は良い質問ではありません」というお偉いさんの答弁も民主主義をないがしろにするものですね。

 延々と続く疑問や反論に、まずよく聞いて一つ一つを噛みしめて、時には自説を曲げず、時には自説を変更し、時には保留しながら日々を過ごしていたのです。そこには「テーゼ」を「科学的」「真理」と垂れ流すアカハタの入る余地はなく、門扉越しに罵倒するような態度も許されないものでした。