こうしてみると、第一場のロックアウトと第四場の70年生徒処分は、69年10月3日の臨時職員会議での職員会議方針に合致したものであったのです。

 同時にそれは、例の日高教の資料に沿ったものだったのです。
 もう一度見てみましょう。
 1 10月5日日曜日は登校を禁止する
 2 あくまでも学校の自主解決の方針をつらぬく
 3 学校が警察権力の介入で問題の解決をしようとしない

 なお、3が欺瞞であったのかどうかは議論の分かれるところです。というのは、「学校が」という文言が誰を指しているのかが曖昧だからです。おそらくこの段階では「学校の管理者である校長」の判断を縛る目的があったのでしょう。

 70年の対応では、「県教委の要請や、それによる校長の要請がなくても」「学校は警察導入を要請することがあり得る」という意味であった事が明白です。ご本人がそう書いておられるのですから。
 そして「学校」の意味がだんだん明白になってきました。「校地、校舎、そして教職員(正確には廣林氏に同調する教職員)」それが「学校」だったのです。
 生徒の入る余地はありませんね。

 では第二場と第三場は何だったのでしょうか?