ある学生が「お兄ちゃんの事知ってる?と聞いたけど、知らないって言ったでしょ」と語りかけてきた。
 そういえば、しばらく前にそんな質問をされたような気がする。
 「先生は知らないって言ったんだよね。お兄ちゃんの事」とかなり非難の顔。その彼女の後ろにどこかで会ったような顔があった。
 服装は典型的な現場労働者の姿。顔にはひげ。日焼けして、僕と同じくらい黒い顔をしている。

 「お母さんがね、一緒に行かないと先生は思い出さないよといったから、今日は来てもらったんだ」
 「先生、俺。俺だよ。覚えていないかなあ」

 僕はびっくりしたね。
 良く見ると、なんだ、忘れもしない彼だった。そう思った瞬間に二十数年の記憶が蘇ってくる。
 彼が小学校の二年生の時から中学校の卒業まで八年間を一緒に過ごしたN君ではないか。それが、おやじの顔になっている。
 「何言ってるんだ、忘れるわけないだろう。元気そうだね」
 「結婚してさあ、子どもも二人いるんだぜ」
 「頑張ってるんだね」
 「結構やってるよ。そういえば、妹が世話になってるみたいで・・・」

 そこで女子学生が何ごとかを耳打ちしした。
 彼は財布から札を出し、彼女に渡す。その表情はちょっと悔しそうだが、悪い顔ではない。その時僕は、兄妹と母親の賭けの対象になっていたのではないかと気が付いた。
 32歳になる兄が五千円札を妹に渡す様子が見えたのだ。それは賭けに負けたものが潔く掛け金を払う姿に見えたのだし、妹は当然のように受け取りポケットにしまったようだったのだから。

 兄と妹そして母親。
 「お兄ちゃん、大学にKという先生がいるんだよ」
 「その人って中学校で教頭をやっていたのかな」
 「そうみたいだよ、中学校や小学校の先生だったんだって。お兄ちゃん知っている?」
 「そういう人はいたけどな」
 「じゃあ、K先生はお兄ちゃんの事も覚えているんじゃない?」
 「覚えてやしないと思うよ。オレはできんかったし、先生たちに嫌われていたからな」
 「なに。K先生にも嫌われていたの?」
 「アホなことをいうなよ。俺のことだって嫌わない先生たちもいたさ」
 「K先生には嫌われてた?」
 「オレは嫌われてたかもしれんけど、俺は先生の事・・・」
 「じゃあ、覚えられてるんじゃないの」
 「覚えてはいないよ。絶対。覚えていないと思うな」

 そんな二人の会話を母親が聞いていたとしよう。
 母親が二人の会話に口を出す。
 「で、あなたはK先生がお兄ちゃんを覚えていると思うの?」
 「きっと覚えていると思うよ。そんな感じの人だもん」
 「覚えていないよ。そんなわけあるはずがない」
 「じゃあ、二人で賭けをしたらいいじゃん」
 「賭けるの?」
 「明日、二人で大学に行って、先生が覚えていたらあなたの勝ち」
 「覚えていなかったら?」
 「そりゃあお兄ちゃんの勝ちだけど、お母さんはあなたの勝ちだと思うよ。あれだけ世話になったし、K先生のことだもの、きっと覚えていると思うよ」
 「私もそう思うんだ」
 「でも覚えていなかったら、お前は何をくれるんだ?」
 「はい、なんでもあげます。絶対に私が勝つのだから。お兄ちゃんは?」
 「よし百円」
 「なに言ってんのよ。それじゃあ安すぎるよ。ビビってるな」とお母さん。
 「そうよお兄ちゃん。百円じゃだめ。一万円だな」
 「分かった。だけど、もしK先生がオレの事を知っていたら五千円。そうしよう。オレが勝ったら、彼氏をキチン紹介して、俺がOKとかNOとかといったことに従うこと・・・」

 という会話は、Kであるオレの妄想に近い想像に過ぎない。
 しかしNの実家で、もしもそんな会話があったとしたら、五千円は僕が払っても良かったかなとふと思えてしまうのだ。
 彼は賭けに負けたことを残念には思っているだろうか? お金を渡した時の彼は「負けた。悔しい」という顔ではなかったような気がするが。
 
 ところで僕が彼女とは「初対面ではなかった」ということについて、「実はね」と話したら彼女は驚くだろうなと思う。ちょっと道に迷った中学校時代の兄、彼について保護者と僕たちが相談しているときに母親の胸に抱かれていた赤ん坊。
 時にはむずがって相談を中断させたりもしたあの赤ん坊が、こんなに大きく成長して、君になっている。