日本人がノーベル賞を受賞したとマスコミは大喜びしているが、手放しで喜んでいてよいのだろうか?

 受賞者の一人、中村修二さんはカリフォルニア大学サンタバーバラ校の教授になっている。

 彼は会社員だった1990年代に青色LEDの量産化技術を確立した。その彼に対するボーナスは、実にわずか2万円だったという。
 「それはおかしいじゃないか」と訴訟を起こしたのだが、その時の請求額は200億円だった。
 またべらぼうな金額じゃないかと日本中が考え、僕もそう感じたものだ。
 ところが、彼の発明が会社にもたらした利益を裁判所は604億円と認めたとのこと。
結局、04年に東京地裁は会社側に200億円の支払を命じ、会社側はこれに対して、8億4000万円を支払うことで和解した。
 僕は8億ならいいじゃないかとうらやましく思い、世間も彼を金の亡者とか、金目当ての研究だったのかといぶかしんだものだ。

 しかし考えてみれば、結果的に会社は596億円の利益を得、発明者はその1パーセントちょっとを貰っただけだったのだ。そりゃ怒れるぞと僕は思うがどうなのだろう。

 今また特許を会社のものとする方向が定まりつつある。それで良いのだろうか?
 金目当てに研究しては、いけないのだろうか?
 また研究費や給料を会社が負担しているという事実はある。だが研究が利益になった場合、その利益を会社が独り占めできるという仕組みのもとで「やる気」がでるとでも思っているだろうか。ましてや600億円もの利益から2万円しか渡さない・・・金額が大きすぎて、見当がつかないということなら、600万円儲けたので2円が最初のボーナスで、裁判の結果それが8万円になったにすぎないという計算だと僕にも理解可能となる、。

 問題の一つは、研究費や給料を払っていたのだから知的な成果は会社のものだという発想である。
 二つ目は、手っ取り早く成果を上げるような研究にしか投資をしないという研究についての考え方である。
 三つ目は、そのように基礎研究を軽視しながら、成果だけは自分のものにしようという考え方がある。
 それに乗っかるのがマスコミで、突然古臭い倫理観を持ち出して、「金目当て」などと蔑んだ目を向ける。

 こうして、基礎的な研究には投資がなされず、成果が上がれば会社や世の中のものになってしまい、分け前を請求すれば「賎しい奴」と非難される。成果が上がらなければ無駄無意味と決めつけられて、切り捨てられる。
 今回の受賞三氏の談話にもそうした状況への抵抗の声があることに気付かないのだろうか?

 研究者の動機を高めるような環境を作らないと、日本人が受賞しても、その人は海外の大学や研究機関、会社に在籍しているということになりかねないということに気付かないのだろうか?
 僕は金目当てでもいいじゃないかと思う。
 近い将来にこんなニュースが流れることだろう。
 「〇〇国の〇〇会社の日本人がノーベル賞受賞。会社の利益は600億円、発明者には100億円のボーナス」
 強欲な会社を保護し、研究者を大切にしない日本は、大好きな経済的な利得も得られず、大切な頭脳を失い、優秀な若者は外国を目指すことになるだろう。
 これも国際化だな