僕は「三宅さん」をカワムラ君と言い続けるかもしれないが、学生諸君は「知らん分からん、出来ん、無理、普通」という地獄にはまっているのかもしれない。と、昨晩書いた。
 脳の中で反復し、鳴り響いていることに人は支配されているのではないかということがいいたかったのだ。

 今夜はその続き。名前の間違いではない。例えば盗撮についてのメカニズムを考えたい。

 裁判官とか教師とかが盗撮で検挙されたというニュースが時折流れてくる。
 彼らはどうしてそれをやってしまうのだろうか?

 そこにはこんな仕組みが働いているとは考えられないか。
 第一に、彼らは盗撮が犯罪行為であり、身を破滅させるということを、誰よりも強く理解している。
 第二に、彼らは命題に対して忠実であり、脳の知的な命令に逆らうことができない性質を持っている。
 第三に、大切なことには集中力で自分に言い聞かせることに長けている。
 という訳で、彼らの頭の中には「盗撮をすると身の破滅」という認識が生まれ、「盗撮はいけない」という否定形のイメージが駆け巡ることになる。
 一方では、「身の破滅になるにもかかわらず、盗撮する同僚がいる」という事実についても知っているので、そこには「破滅を凌駕するようななにかがあるのではないか」という疑問というか興味が生じているとしよう。それは麻薬的な魅力以外の何ものでもない。

 ここで気をつけなくてはならないのは、「盗撮はいけない」という論理の構造である。
 否定形という命令が、あることを認識したうえで「してはいけない」という二階建てだとしよう。
 一階に「盗撮」があって、二階でそれは「いけない」と否定しているという構造だ。では「盗撮は快かもしれない」はどこにあるかと言えば、中二階といったところではないかと思う。否定よりも肯定の方が、生きるレベルに近いと思われるのだから。

 すると、理性的な状態では「盗撮は、快かも知れないが、それはやっていけない」と認識できることになる。
 だが理性的な状態が薄れてくると、「盗撮は、快かも知れないが、やっては・・・」となる。
 危ない危ない。身の破滅に近づいている。すると、不安がこみあげてきて、理性の状態から離れていくことになるのだ。
 理性の状態が薄れるということは二階が消えていくということだ。
 二階が消えれば、「盗撮は、快・・・」が残る。
 すると理性がやってきて「それでは身の破滅だ」と不安をかきたて、さらに二階部分を、すなわち否定部分を取り払っていく。
 こうなると頭の中は、「盗撮、盗撮」「快、快、快」というイメージが踊り狂うこととなり、「つい、やってしまった」ということなるのではないだろうか。
 このメカニズムは「僕は、優秀な役人、盗撮はやってはいけない、身の破滅はだめだ」と、研修などで擦り込まれた人の場合に効果的に働くのだろう。否定形を削除してみてほしい。
 「僕は、優秀な役人、盗撮、身の破滅」という、悪魔的なささやきになるじゃないか。

 誤解のないように・・。僕は盗撮を肯定する気はないし、盗撮する人を弁護する気もない。
 だが、「否定形」を使った教育が、事件を誘発するメカニズムを持つということを知ってもらいたいのだ。
 いじめ防止、自殺防止、盗撮防止、さらには反戦などを目的とする教育がある。しかしそれが少なからぬ割合で、狙いとは逆の効果を生んでいるかもしれないということに気付いてほしい