思考方法を考えるということは、頭の中は今どのようなコトでいっぱいになっているのかを考えるということである。
 人の名前を間違える。あるいは思い出せないという場合、自分の頭の中を観察するに、量的に間違ったコトが圧倒しているということに気が付いた。

 例えば、ミヤケという人がいる。一方に彼の名前をカワムラと感じてしまった自分がいる。どうしてそうなったかはつまびらかではないが、あるいは三宅の三を頭が勝手に90度変換してしまい川を連想してそれがつく苗字で記憶してしまったのかもしれない。
 ああいけない。
 間違いの過程を追究して納得した途端に、僕の脳は納得・・・肯定しているようだ。間違いのメカニズムを諒解するということは、間違いを許したり間違いを奨励することになるかも知れないのだから。
 おそらく脳は単純なことについては単純な仕組みで物事を記憶しているに違いない。たとえば顔と名前の組み合わせ。

 一方で複雑なことについては、単純なことの積み重ねで記憶しているのだろう。積み重ねられた複雑で絡み合った記憶の内部では、多少の食い違いや欠落はスキップするようにできている。
 三宅君か川村君という、顔・・・名前の対応の要素。
 そして彼が悩んでいる学園祭に出店するとか、予算とか、みんなが協力してくれないとか、大学当局との交渉とかといった要素。
 後のほうが当面の課題としても、物語としても関連する要素が多く、それだけに情報量が圧倒的に多いではないか。情報量が多い物語の中で登場人物が固有名詞を持つことは、情報の余剰なのかもしれない。などと考えると、ロシアの小説の面倒くささや、日本の物語の匿名性、スーホの馬の名前が呼ばれないなど、比較してみるのも面白いかもしれないが、それは別の機会に書くことにしよう。
 僕にとって視覚的に認識できる彼の物語りを理解して、協力し応援するためには、僕と彼との二人の関係の中では彼の名前を識別する必要がないのである。
 ようするに僕と君で済んでしまう。
 ところがそれ以外の人が登場してくると彼についての名前の認識が必要になってくる。第三者に知ってもらうためには、彼の名前の正確な紹介が必要なのだ。
 
 その時に気付いたのが「頭が何に一杯か?」ということ。
 同時に「記憶は回数で刻み込まれる」ということだ。

 三宅君を紹介するときに、僕の頭の中では「間違えるなよ、川村君じゃないぞ」と繰り返している。
 「川島君でもないし、君は三を九十度変換して川に読んじゃっただろ。けれど川村でも川島でもないぞ」
 「大切な人の名前を忘れるなんて、失礼な奴だな」
 「正しい名前を、ちゃんと言えないなんて、ひどい奴だな、お前は」
 「しかたがないさ歳なんだもの。友人だろうが恩人だろうが、忘れて当然だよ」という声も聞こえてくる。
 
 そうだ、その時の僕の頭の中では言い訳と、間違いデータのエコーが飛び跳ねているようだ。
 【川村じゃあない。分からなくても当然。年寄りは忘れる。オレは人名が苦手。思い出せないメカニズムは明らかだ。川村じゃない。川じゃない、川、川・・・】。先に書いたように脳は単純なもので、繰り返したものが深き刻み込まれるだけなのだろう。ということは否定が働いていないかもしれないということだ。
 とすると、先の思考は、川村、川村、川、川、川村・・ということになる。

 僕は「三宅さん」をカワムラと言い続けるかもしれないが、学生諸君は知らん分からん、出来ん、無理、普通という地獄にはまっているのかもしれない