三題話ではある。

 職場のPCがダメになったのでOSの白紙インストールをかけたところ、やたらと時間がかかって終わりそうにもない。というのが金曜日の夕方の事だった。いくら遅くても二日もあればなんとかなろうと期待して出勤したのが今日の月曜日。
 結果はゼロ。というかマイナスで、数行のエラーメッセージが出ているだけだった。
 さあ大変だ。メールが読めない。返信も出来ない。調査ファイルへの記入ができないし、報告書を書くことも出来なければ学生のプロフィールを読むことも出来ない。だるまさん状態である。全くインプットとアウトプットができない状況に陥っていることが分かった。
 僕は実体としてここに居ながら、出勤記録や報告書といった僕の存在証明となるモノが発信できないので、音も光も振動も発してはおらず、不在も同然の状態となった。わずかに、不調のPCを電源から切り離して抱きかかえ、大学の中をオロオロしているばかりであった。
 PCがなくては存在が証明できない世の中になってしまっていることを痛感。
 野坂がノサカかノザカかで語りまくった「オレはノザカだ」の時代が懐かしい。少なくとも彼は「野坂」という印鑑・・実態・・を持ってオレを顕現し、その読みについて御託を並べることができたのだから。
 野坂さんに、パスワード、メールアドレス、ナントカキー、カントカキーが必要なのだが、PCがなくてはそれも使うことができない世の中になってしまったのだぜと報告しなくてはならないようだ。彼は何というだろう「おいおい、生きているのは君なのか?それともPCか?」
 問われて思い出すのが「胡蝶の夢」

 【夢の中で胡蝶(蝶のこと)としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、という説話】

 ここまで来て想起したのが「帰去来の辞」。荘子から陶淵明に思考が飛んだプロセスは全く分からない。
 分からなくても良いじゃないか。
 昨日までの僕は、思考の飛躍のプロセスを説明しようとして苦しんでいたが、それは宿題にしておこう。そうすることに決めたとたんに頭が楽になる。なにもかもを説明しようとするのは良くないことかもしれない

 さて帰去来の辞。
 旭丘高校の旭丘新聞のコラムは「帰去来」であった。自分も何度か書いているはずだがPDFを見ても良く分からない。
 しかし進学校の新聞のコラムの題字が帰去来とは。「身を立て名を上げやよはげめよ」というポテンシャルの中で「帰りなんいざ田園まさにあれなんとす」なのだからね。
 競争社会へのある種の反発なのか、リタイヤ後への約束なのか、それとも皮肉な洒落なのか。

 命名した先輩に聞いてみたい気がする。