自分が英語が苦手なのは、中学校での英語学習のしょっぱなに非人間的な学習を強いられたからだと思い込んでいる。

 これは一つのリンゴです。
 これらは二つのリンゴ(たち)です。
 これはペンです。これらは二つのペン(たち)です。

 これはリンゴですか?
 そうですそれはリンゴです。いえそれは一つのリンゴではありません。

 正確ではないかもしれないが、このようなテキストを見せられて感じたのは正直な所。失望である。
 リンゴの絵を見て「これがリンゴである」と宣言することに何か意味があるのだろうか?単数の時と複数の時の違いがいろいろあるということが、自分に何か関係があるのだろうか?

 意味と関係に疑問を持ってしまったら学習は進まない。進むとしてもわだかまりを含みながらの困難な道になってしまう。

 その上、おそらくリンゴを手にしながら「これは一つのリンゴですか?」はないだろう。真顔で「はい、それは一つのリンゴです」と答え、「いいえそれは一つのリンゴでははありません」などという会話は、あのテキストにしか存在しない「アリエナイ会話」だったに違いない。

 「リンゴが食べたいな」。「いくつ欲しいの?」。「三つかな」。「それは多すぎるよ」などという会話のほうが面白い。また「君のペンケースに何が入っているの?」。「ペンと鉛筆と消しゴムだよ」。「赤いペンと鉛筆を二本、貸してほしいな」。「良いよ、明日返してね」なんて会話だったら少しは身が入ったかもしれない。

 悲しかったのは「私は一人の男の子です」ってやつだ。「私は一人の男の子ですか?」という疑問はない。
 ということよりも、もっと深い意味があるということを覆っているだけに悪質だともいえる。単純な言葉はかえって深い意味がありうるものだ。
 「俺だって一人前の男さ」、「間違うなよ、こう見えても男の端くれなんだから」、「男じゃないっていうのかい?」「俺だって男だよ」と使われることがありそうだ。映画のワンシーンにおけそうじゃあないか。
 映画といえば、アントニオがブルータスを破った後に語った言葉が字幕になんと書かれていたか?そこには「彼こそ男の中の男であった」とあったのだ。あれには驚いたね。自分が習った中学英語であれば「彼は一人の男だった」と書かなくては丸がもらえなかっただろう。
 
 いずれにしても、文法から外国語を習得させようという徒労の歴史であったと思う。それは関係を無視して、状況を考慮しない生気のないルールの押し付けであった。関係と状況を抜きにした言葉なんて、たちの悪いパラドックスではないか。だから非人間的だったと思うのだ。
 あれ? 今でもそれに近い指導なのかな?まさかそのようなことは有るまいと思うが。