オリンピックたけなわだが、解説か応援団かは知らないが、高橋尚子さんの言葉がいちいちうっとおしい。

 「勇気」の大安売りである。

 いつからこの人は「勇気を与える」ことができるようになったのか?
 また日本人選手の活躍に、いちいち「勇気を与えることができた」と評価できるようになったのかとお聞きしたい。
 まるでカリスマではないか。

 ひいきの球団ではないが、巨人関係の記事にこんな言葉があった。
 【2年連続日本一を狙う巨人の桃井球団社長は年頭のあいさつで、「こういう沈んだ世の中に、元気と勇気を与える力が巨人軍にはあるとあらためて実感した。今年もまたそういう巨人軍でありたい」と職員に訓示した。】
 これは悪いとは思わない。
 職員に訓示したのだから、「勇気を感じてもらえるようにしよう」とか「良い試合を見せて、人々に勇気を共感してもらえるようにしよう」といった程度の意味だと思われるからだ。
 これが「巨人が勇気を与えます」と言ってしまったら終わりである。
 せいぜい「みなさんの応援が選手の勇気を呼び起こします」とか、「勇気あるプレーを堪能して下さい」というのが謙虚というものである。

 また「習志野高に勇気を与える“特別な応援”」なんていうのも悪くない。
 勇気を持ってプレーするのが選手だからである。

 それがこの人は「勇気与える走りを」と試合前に言ってみたり、「列島に勇気を与えるレースを約束」したり、「人々に少しでも勇気を与えられたらうれしい」となど平気で言えるし、結果がどうであれ自分で「勇気を与えられた」としゃーしゃーと語れるのである。
 そうじゃないだろう。
 本人は「応援があったので勇気がわいた」「みなさんが勇気を下さった」というのが謙虚というもの。
 そして勝ったときには「みなさんの声援のおかげです」。負けたときには「せっかくの声援で勇気をもらったのに、残念な結果となりました」というのが日本の心じゃないか。

 勇気は応援する人々が与えるもので、というか掻き立てるものであって、選手が与えるものではない。
 そして、勝ち負けにかかわらず果敢に戦う選手の勇姿に、応援しながら共感して「湧き上がる」ものであって、与えられるものではないのだ。

 おやぢは勝利至上主義ではないし、オリンピックで国威発揚をしてくれなどとは言わない。
 しかし選手は勝つために、勝とうとしてして試合に臨んでいるのではないか。
 それが、見事な勝利でも、果敢な闘いの果ての惜敗でも、体制不足・準備不足・練習不足・その他いろいろ不足の完敗でも、「勇気を与えた」「感動した」の連発では勝者に失礼ということが分からないのだろうか。

 勇気を与えられることはある。それはひたむきな競技姿勢からいわば勝手に「与えられる」のであって、「私が勇気を与えます」というべきものではない。
 まして選手を評価するために、「この人は、国民に勇気を与えた」と言えるものではない。
 そんなことをするのは、やっぱりカリスマ志向だな。