未来ユメ日記 by GG

夢、ゆめ、ユメ。未来に向けてユメを語ろう。教育・テクノロジー・地球の未来・歴史・ドラゴンズ・・定年退職を迎えた2012・4・1から、未来に向けてユメを紡ぐ

 子どもを叱っている声が聞こえてくる。
 しかしそれを紙に書くと果たして叱っているのかどうなのか、良く分からない。子どもも分からないのだろう。最後は大泣きとなる。親の方は大声で捨てぜりふを投げつけて事態が一段落するが、大泣きだけが残って、うるさくてしかたがない。なんとかしてくれよ、この暑いのにといいたい気分でいっぱいとなる。

 「なんでそんなことをするの?」と、突然の大声。
 子どもが何かをしたのだろう。
 「○○ちゃん、ねえ、どうして、どうしてそんなことをするの?」
 「ちゃんと答えてよ、パパが怒らないうちに」
 「聞いているだけなんだから」
 「どうして、どうして答えないの?ちゃんと答えなさい」

 何をしたのかは分からない。それがどうしていけないことなのかも分からない。父親の一方的な声が続く。
 「さっきやったでしょ。いつもパパが言っているじゃない。そんなことはやっちゃいけないって」
 「分かっているでしょ。いけないってことは。でもやっちゃったでしょ。やったでしょ。やったじゃない。ちゃんと認めなさい。それをやったからパパが注意しているだけなんだよ」
 「認めるの?認めないの?やったでしょ、パパはちゃんと見ていたんだから」
 「だから、なんでそんなことをするの?はっきり言いなさい」

 相手は二三才の幼児。このあたりからぐずった声が漏れてくる。パパの声が大きくなる。
 「なんで泣くの?変でしょ。やったのは○○ちゃんなのだから」
 「なんで泣くの?泣くのはやめなさい。認めてよ。なんでやったの。なんで泣くの?」
 子どもが大泣きを始める。パパの声がマックスになったから大泣きするのか、その逆なのか。ま、相互作用といったところだろう。
 あとはパパの根気が続く限りの大声での質問が続く。

 「なんで?」「なんなの?」「何でやったの?」「なぜ泣くの?」「なんでなの?」「言えばいいでしょ」・・・
 パパの興味が途切れたのか、他の用事が出来たのか、ナイターが始まったのか分からないが、パパの大声がプツンと聞こえなくなる。
 子どもの大泣きだけが続いている。
 

 自分が英語が苦手なのは、中学校での英語学習のしょっぱなに非人間的な学習を強いられたからだと思い込んでいる。

 これは一つのリンゴです。
 これらは二つのリンゴ(たち)です。
 これはペンです。これらは二つのペン(たち)です。

 これはリンゴですか?
 そうですそれはリンゴです。いえそれは一つのリンゴではありません。

 正確ではないかもしれないが、このようなテキストを見せられて感じたのは正直な所。失望である。
 リンゴの絵を見て「これがリンゴである」と宣言することに何か意味があるのだろうか?単数の時と複数の時の違いがいろいろあるということが、自分に何か関係があるのだろうか?

 意味と関係に疑問を持ってしまったら学習は進まない。進むとしてもわだかまりを含みながらの困難な道になってしまう。

 その上、おそらくリンゴを手にしながら「これは一つのリンゴですか?」はないだろう。真顔で「はい、それは一つのリンゴです」と答え、「いいえそれは一つのリンゴでははありません」などという会話は、あのテキストにしか存在しない「アリエナイ会話」だったに違いない。

 「リンゴが食べたいな」。「いくつ欲しいの?」。「三つかな」。「それは多すぎるよ」などという会話のほうが面白い。また「君のペンケースに何が入っているの?」。「ペンと鉛筆と消しゴムだよ」。「赤いペンと鉛筆を二本、貸してほしいな」。「良いよ、明日返してね」なんて会話だったら少しは身が入ったかもしれない。

 悲しかったのは「私は一人の男の子です」ってやつだ。「私は一人の男の子ですか?」という疑問はない。
 ということよりも、もっと深い意味があるということを覆っているだけに悪質だともいえる。単純な言葉はかえって深い意味がありうるものだ。
 「俺だって一人前の男さ」、「間違うなよ、こう見えても男の端くれなんだから」、「男じゃないっていうのかい?」「俺だって男だよ」と使われることがありそうだ。映画のワンシーンにおけそうじゃあないか。
 映画といえば、アントニオがブルータスを破った後に語った言葉が字幕になんと書かれていたか?そこには「彼こそ男の中の男であった」とあったのだ。あれには驚いたね。自分が習った中学英語であれば「彼は一人の男だった」と書かなくては丸がもらえなかっただろう。
 
 いずれにしても、文法から外国語を習得させようという徒労の歴史であったと思う。それは関係を無視して、状況を考慮しない生気のないルールの押し付けであった。関係と状況を抜きにした言葉なんて、たちの悪いパラドックスではないか。だから非人間的だったと思うのだ。
 あれ? 今でもそれに近い指導なのかな?まさかそのようなことは有るまいと思うが。

 「一人ひとりの子どものための教育になっていない」と堀さんがため息をつきながらいった。

 その言葉が気になってちょと気になったので調べてみた。

 日本国憲法第26条第1項に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」という規定がある。
 また同じく日本国憲法第26条第2項に、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」となっている。

 権利を受ける者は「すべて国民」であり、その権利を補償するのは「保護者」ということである。

 これは就学義務であって教育義務ではないようで、ホームスクーリングは含まれていないと解釈されているようで、要するに「学校に行かせよ」ということらしい。

 憲法を受けた教育基本法では、第5条2項で「義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家および社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。」と規定している。
 そしてこれをもとに学校教育法がいろいろなことを決めている。

 堅い話が続いて申し訳なかったが、ここまで読んであることに気付かされた。
 整理してみよう。
   1 子どもには教育を受ける権利がある。
   2 親(保護者)には子どもに普通教育を受けさせる義務がある。
   3 普通教育は「〜〜〜を養うことを目的として行われる〜〜」。
   4 普通教育は、学校教育法が定めるように、学校で行われる。

 あなたは、何かお気づきか?

 

 

 これは現代の話。

 当時の恩師から「編集委員会を設立して、共同で記録作業をするべきだ」という意見があった。
 しかしそれは御免蒙りたい。
 というのは第一に、時間がかかり過ぎるからだ。
 第二に、編集方針や内容についての意思決定が必要であり、内輪の論争でエネルギーを奪われかねないという心配がある。
 そして第三に、庶務的な業務が消耗ではないかと思うのだ。メンバーを決める。会場を設営して案内を出す。資料をコピーして配布する。出された意見を集約して再配布して確認する。云々。

 場合によっては、記録などいらないという意見やとんでもない(と、編集委員が思う)異論が出るかもしれない。いずれにしても、時間と資金とエネルギーが奪われていく。その先は、頓挫しかないだろう。

 今や電子書籍の時代なのだ。しかもそれは検索とタグ付、リンクによって次のようなことが可能となる。

 いわば電子書籍宣言だな

 電子書籍は単純に紙の本をデジタルに移し替えるだけではなく、立体的な構造になるだろう。またそれは参加者のツイートやブログをリンクしてオープンなものとなるに違いない。

 何十年も前に青いアスキーで、シーケンシャルファイルとランダムアクセスファイルの違いを学んだが、実際にハードディスクを使うようになるまではさっぱりその概念の違いが分からなかった。
 今、書籍にもパラダイムの変換が必要なのだ。


 まとまらないという予感があるからこそ、まとまらないまとめ方を可能とする新しい概念の編集を目指すべきではないか。

 歩道からデモの隊列に入ったことがなぜわかったかと言えば、それは歩道が私服警官や鑑識の制服でカメラを持った警官でいっぱいだったからだ。彼らはデモ隊や歩道を歩く人々を写真撮影しながら何やらメモを取ったり無線で話したりしていた。ある教師がデモと一緒に歩いていた所を学校に伝えられたというエピソードがあるが、それは私服警官から警察署、そこから県警本部、県教委、学校とリレーされたものと思われる。
 灰色で上に指揮所を設けた山車のような車へは、Kが入ったことが無線で伝えられたのに違いない。その場所に急行してデモの車道側を歩く機動隊に情報を伝えに来たのであろう。だからこの時は、注意を引くためにヘルメットをつついたのであった。「隣の学生に特に注意せよ」とでも伝えたかったのだろう。
 機動隊員の腕に気合が入り、組んだ右手が引き上げられる。困ったことに背が違う。Kの体は左が屈んだ生徒の腕と組んでいて、右が長身の隊員と組んでいるので、きわめて不安定な状態になった。
 「おい、持ち上げるなよ。痛いだろう」「うるさい、暴力学生」「そんなことはしていないだろう」「じゃあ、なんで顔を隠すのだ」というようなやり取りがあったが、Kはヘルメットもなければタオルのマスクもしていない。Kが入ったとご指名を受けたくらいだから今さら隠しても仕方がないし、もともと隠そうというきもちもなかったようだ。
 「オレは隠していないだろうが」といいながら腕を下ろそうとするKと自分の位置に引き上げようという隊員の体を使っての問答がしばらく続いた。
 そのうちKは相手が誰なのかが分かってくる。
 不思議なもので、そうした時には向こうも気づいてくるもののようだ。
 「おい暴力学生、お前、旭丘の生徒じゃないか」「あんたは、いつもの警察官か?」。彼は毎朝古出来町の交差点に立っているあの彼だったのだ。
 「あんた機動隊だったのか」「違う。数が足らんもんで、駆り出されただけだ」「そりゃあ、ご苦労さんだね」「逮捕予定はないと言ってたんだ。おとなしくしろよ」「だからオレが入ったんじゃないか。腕が痛くて指揮も出来ん」「おとなしくしろ」「前の隊列のようなことはするつもりはない」「なんでデモなんかするんだ」「あんたは戦争に賛成か?」「馬鹿なことを言え、賛成なんかじゃない」「そうだろ、アンポで戦争になるのが嫌だから・・・」
 そんな会話をしながら柳橋あたりまでいった時だった。先ほどの指揮車が再び近づいてくる気配がした。
 「なにを、しゃべっておるのか。職務を果たせ」と、寄せ集め部隊の機動隊長がまたもや赤白の指揮棒を振り下ろす。Kはまた首をすくめる。しかし今回も指揮棒はKにではなく、機動隊員のヘルメットを狙ったものだった。先ほどとは違い、力を込めて二発三発と叩きおろし、交代を命じた。彼は違う隊員と入れ替えられ、新しく隣に来た隊員は話しかけても何も答えず、その代わりに腕だけを締め上げるのだった。

 「歩道橋の上」の話の歩道橋は有名な女子高のそばにあった。一方「警官が居た」のはKの学校のそばにあるものだった。どちらを話そうか迷ってしまうが、今回は歩道橋の上と下で「声と身振りであいさつし合った」警官との邂逅が思い出される。

 彼と遭ったのはデモの夜。そこで始めて彼の声を聞いたのだった。そして彼が打ち据えられる場面に、三度遭遇したという思い出だ。

 翌年の1970年に日米安全保障条約の改定の改定が控えていたこともあって、名古屋でも大規模な反対デモが繰り返し行われていた。Kの高校からも多くの者がデモを組み、Kも当然のように参加していた。
 その夜久屋広場を出発したデモは、いつもにように、出発以前から機動隊の拡声器から流れる「警告」を浴びていた
 「四列縦隊で進め」「五十段で行け」と進行の仕方を示すもので、デモの教科条件を読み上げているらしい。「〜概ね200人で一隊をなし、各隊列は警察の指示する間隔を空けて〜」という声が夜空に響き渡っていた。デモの指導者たちは許可条件を読み上げた後の、いわば警察内部の「業務連絡」に耳をそばだてる。「第○機動隊長より伝達」だったか「達する」だったか、軍隊調の宣言の後「本日の逮捕予定は・・・なし」という言葉は部下の警官によりもデモ隊に聞かせたかったのか、なるほどKたちはそれを聞いて心が少し和らいだ。

 Kの高校の隊列・・梯団は、セクトの梯団の後ろに位置していた。そのセクト梯団がジグザグデモや渦巻きデモを始めたのだ。Kの高校生達も心が逸っているので前に倣って動き始めた。Kは、鑑識警官や私服警官に囲まれながら、彼らから絶えずフラッシュを浴びせられたり話しかけたりしながら、でも一言の声を出すこともなく歩道を歩いていた。
 しかし荒れ始めてしまっては仕方がない。兼ての打ち合わせどおり「代われ」と声を上げ、デモをコントロールしていたリーダーの位置に入り込んだ。鑑識のフラッシュが瞬き、機動隊の指揮車がサーチライトつけて近づいてくる。入り込んだ場所の警官はやたらと背が高く、腕を組まれると右半身が吊り上げられる。指揮車で駆けつけてきた機動隊長はスピーカーで「Kが入った。本日の逮捕予定はない」と叫び。赤と白のだんだら模様の指揮棒を振り下ろした。Kは首をすくめた。しかし指揮棒はKにではなく、隣の機動隊員に向けられたものであった

 D通りにはいくつかの横断歩道橋が架けられているのだろうが、Kが登ったことのあるのはそのうちの2本だけだった。

 2本のうちの一本は、約一年間、それも毎朝南から北へと登って、そして降りた。一年間と言うのは一年で退学したといことではなく、たまたま父親の転勤などで転居が続いたので、始めの一年は自転車で、次の一年は徒歩で、そして最後の一年だけをバスで通学したからだ。

 朝はバスを降りて歩道橋を渡る。帰りは歩道橋の登り口の下からバスが出たので、毎朝南から北に渡り、北から南へと渡ることは、都心に向かう時以外ほとんどなかった。
 毎朝、歩道橋を渡る頃、その下には長身の若いポリスが居た。とても若そうに見えたので高卒の警官なのだろうと勝手に思い込み、歩道橋の上から「ご苦労さん」とか「今日は暑くて大変だね」と声をかけると、彼は警笛を握ったまま手を振ってくれたものだ。声を出さないという規則でもあるのだろうか、彼から手を振ることもあり、「会話」は声と手ぶりで行われていた。歩道橋のあたりで彼の声を聞いた覚えはない。

 彼とはひょんなところで会ったことがあるのだが、その話は別の機会にしよう。

 今回はD通りのもう一本の歩道橋である。
 Kはその歩道橋を渡ったわけではない。というのは、こちらから登りはしたものの、あちら側に降りることはなく、こちら側から降りたからである。
 「経験したものだけが真実である」という立場に立てば、あの歩道橋の北側の階段は、降りたことがないので、はたしてそれがどこに通じて入るのか分からないことになる。見た限りではありきたりの歩道橋のように、普通に地面につながっている。しかし経験したことがないという真実を重んじれば、歩道橋から降りていく先に煉獄があったり地獄があったりしてもおかしくはないということになる。思えば、Kはそちらの方に降りてみるべきだったのかもしれないと悔やんでいる。
 ともかく、1969年11月の22日、Kはその歩道橋の南側の階段を上り、東の方を見ていた。それからの数分間がKの人生の曲がり角となった

昭和44年(1969).11.12〔ゲバ高校生――生活は中位、資本論読み、興奮性 毎日新聞引用〕

 10・21国際反戦デーでは、高校生逮捕者がこれまでの最高70人に達した。そこで警視庁少年一課は、はじめてゲバ高校生の背景をさぐるアンケート調査を試みた(対象者は11月3日までに名前のわかった61人)。

 派閥別では反戦高協(中核系)が25人(うち女子2人)、プロ軍団6人、べ平連3人、赤軍、高校生安保反対闘争委員会、四トロ、高専連合各1人、派閥を明かさなかった者23人。ノンポリは少ない。
 学年別では3年生が41人(67%)と多く、都内公立高生が32人(53%)を占める。
 活動家は受験、就職を控えていない1、2年生で、とくに地方出身者が多いとの予想がはずれた。

 両親健在が50人(82%)、生活程度は中位と答えたもの51人(84%)。父親の職業では会社員が27人(44%)、個人企業が14人(23%)。そして50人(82%)が自宅居住。彼らの学業成績は、41人(67%)が普通。性格は、“興奮しやすい"が一番多く16人(26%)。その他、内向性、従順、ものごとに熱中などさまざま。
 今回はじめて捕まったものが54人(89%)とほとんどだが、39人(64%)がデモ経験をもつ。そして大半は10・21闘争参加は正しいとの認識を持ち、付和雷同はわずか16人(26%)。

 参加の直接動機は先輩、友人、同級生など周囲の人に勧められた者が26人(43%)と一番多い。読んでいる本は『マルクスの資本論』『毛沢東思想史』『東大紛争記録』『共産主義現論』『共産党宣言』などがほとんど。
 彼らのデモ参加を、家庭では全く気づいていなかったのが32人(53%)とほぼ半数、うすうす知っていた16人(26%)、知っていた13人(21%)だった。   (毎日新聞 11・12)

#出校1969

 チェコ事件は1968年、8月20日のことだった。

 8月20日夜11時頃、ソ連率いるワルシャワ条約機構軍が国境を突破し侵攻。チェコスロヴァキア全土を占領下に置いた。中国四国旅行に出かけた時、夜汽車で出発する駅で戦車が大写しになった新聞を買った記憶がある。

 Kの記憶は混乱しているのだろうか?
 というのは、1968年8月18日に飛騨川事故が起き、その数日後に飛騨川に行ったからだ。
 中国九州旅行の日と、飛騨川事故およ飛騨古川行きとの時間的な関係が思い出せない。

 旅行といっても高校生のものである。しかも山陽新幹線はまだ走っていない。
 夜行の急行に乗って朝広島について原爆慰霊碑を訪れ、急いで秋吉台の鍾乳洞に行き、さらに足を伸ばして門司駅に到着。駅から外に出ることもなく反対側のホームから名古屋に向かった。
 九州に足を下したということに意義を感じていたのだ。九州に上陸したとたんにまた夜汽車で帰って来るという無謀な旅行だった。

 それともあの新聞の写真は、違う時期の東南アジアあたりのクーデタの写真だったのだろうか?
 
 そうであったとしても、チェコ事件は衝撃的だった。

#出校1969 (2008年9月14日)

 出版社の人に会いたいと言われ、土曜日の午後に出かけてきました。

 東海高校と旭丘高校を比較して、本にまとめたい。その中で両校の歴史のようなものを書きたいのでということで東京のS君に問い合わせたところ、おやぢに聞けと紹介されたとのことでした。

 おやぢは懐かしい話をぺらぺらと話してしまったのですが、東海高校に関しては1969年に一人の生徒との接点があったくらいで、それ以上のものがないのです。

 <偽名だから名前を出しても構わないと思いますが、それでもプライバシーの侵害になるのでしょうか?>

 もちろん偽名で過激な運動で逮捕されたときに「田代本通」と名乗ったという記憶しかありません。

 1968年から69年の新聞部は、京都府立鴨沂高等学校とか東京の日比谷高校、青山高校あたりしか眼中になく(それも先輩の受け売りで・・・)、あとは大学と同格のような錯覚というか、プライドを持っていましたね。

 新聞部にいましたが、部室には昔の「高校新聞コンクール」の優勝カップなどが転がっていました。じゃあ俺たちも挑戦しようと思っても、先輩は「ガキの遊びに付き合うなよ」といった感じで、賛成は得られなかったのです。

 「俺たちは高校なんて相手にしないんだ」という雰囲気があり、部室には東大新聞やいろいろなセクトの機関紙が散らばっていました。

#出校1969

 3月12日 - 首都圏に大雪が降る。これは田舎の高校生にとって大事件である。大学入試のシーズンではないか。出来町高校では東大志望の先輩が一年浪人するか他大学を受験するかで迷った末に大雪となった。彼らの人生の出鼻をくじいたのか。はなむけになったのか。大雪は

 出来町高校の卒業式ではI先輩が答辞を読む。送辞を読んだのはOか?Kだったか?I先輩は「砦の上にしか我らが世界はないのでしょうか?」と言ったのでしょうか?それとも「砦の上にしか我らの世界はありません」と言ったのでしょうか。騒然としたが、次の年は簡易な卒業式だった

 思い出は何とかという針の進め方。返し縫だったっけ。技術家庭科の成績だけは180パーセント絶対的な自信を持っていた。理科では顕微鏡写真も抜群。にもかかわらずどうして文科系に進んだのだろうか。それは中学校の部活動顧問の一言だった。「君は理科系には合わない」

 校長として小学校の卒業式に臨む時、自分の高校卒業時が浮かんでくる。僕たちだけが3月の10日。鯱光館での立ったままでの時間待ち。すると壇上で司会の教師が「卒業式を行う」との宣言。校長が駆け足で登壇して「○○以下の○○○名の卒業を認める」と式辞。「以上で卒業式終わり」だった

 封鎖あり。退学あり、自殺行、脅迫、殺人未遂あり。深夜の鯱光館には心中した先輩カップルの一糸も纏わぬ幽霊が出るとの伝説もあり、140文字で追っていくと苦しいものがある。ブログでも読める

 4月1日 - 日本人の一般海外旅行における1回あたりの外貨持ち出し制限が、従来の500USドルから700USドルに緩和された。一ドル360円の時代。外貨が慢性的に不足していて「外貨持ち出し制限」という規制があった。庶民には無関係だったけれどね

 4月7日 - 永山則夫連続射殺事件犯人が逮捕される。獄中から『無知の涙』などを発表し、1983年には小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞。1997年に死刑執行される。彼と彼の犯罪は貧困、司法、文学、文芸家協会などに大きな問題を投げかけた

 出来町高校の玄関にあったビーナス像の原寸大のレプリカが、秋のある日に姿を消す。誰の判断かは分からない。しかし来るべき「騒乱」の際に壊されないようにという考えだったのだろう。ビーナスが姿を消した時、我々生徒は、怒りとか不信、そして滑稽な気分を味わった。誰がビーナスを壊そうなどと考える者がいただろうか

 ホーチミンと言う人がいた。胡志明が、そのホーおじさんの漢字名だ。またの名をグエン・アイ・クォック 阮 愛國。ベトナム人には漢字の名前がある。その人は1969年9月2日に死去。ベトナム戦争の勝利を見ることはなかった。Kの高校には彼にそっくりの「ホーおじさん」と自称する教師が居てた。彼との70年の新春の会話が忘れられない。

 みぞれが降る中バス停で交わされた会話をKはどのように受け止めればよかったのか。

 ところで本物のホーチミンが述べた言葉として有名なのは『中国人の糞を100年喰らうよりフランス人の糞をしばらく喰らった方がましだ』というものがある。中ソ対立により激化していたベトナム労働党内の「中華人民共和国派」と「ソ連派」の路線対立は、ホー・チ・ミンの死去により「ソ連派」の優勢が確定した

 Kたちは、ソ連と中国とベトナムの複雑な関係を全く理解していなかった

 週刊誌は「朝日ジャーナル」、月刊誌は「現代の眼」を読むのが新左翼系のパラダイムだった。時には共産党系の「前衛」「赤旗」「民主青年新聞」を批判的に読んだ。教師ホーチミンは、茶色い封筒に入れた「赤旗」を「君にだけ特別だよ」といって生徒に渡すことで有名だった

 3月2日 - 中ソ国境紛争(珍宝島事件/ダマンスキー島事件)勃発。ベトナム戦争を共同して支援しているはずの両国の武力衝突だった。中国では文化大革命が進行していた。当時はその具体的な様子は全く分からず、文化大革命という言葉の匂いが好もしいように思われた

 紅衛兵が振りかざしていた毛主席語録が最近までどこかにあったなあ。文革が何千万人もの命を奪った戦乱であったことをずいぶん後になって知ったが、デパートで開催された中国展に展示されていた「紅旗」という中国製の自動車は、戦車のような印象を持たせる重々しさが感じられた

 1968年8月18日には、岐阜県白川町の国道41号において、乗鞍岳へ向かっていた観光バス15台のうちの2台のバスが、集中豪雨に伴う土砂崩れに巻き込まれて増水していた飛騨川に転落し、乗員・乗客107名のうち104名が死亡した事故がおきた

 被害者の多くが住む地域は出来町高校のすぐそばだった。それはまたKの卒業した中学校の隣の校区だった。104名の中に高校の生徒は居なかったが、家族をそっくり失った生徒が数人いた。突然の家族の喪失と報道関係者の冷静で残酷な取材に、Kは打ちのめされた。

 1968年8月20日夜11時頃、ソ連率いるワルシャワ条約機構軍が国境を突破し侵攻。チェコスロヴァキア全土を占領下に置いた。この記事が大きく報道された夜。高校二年だった自分は一人で急行列車に乗った

 1968年夏のソ連軍のチェコ侵攻と飛騨川事故は、単に外国の事件とかバスの事故というにとどまらず、Kの生き方に大きな影響を及ぼした。これに加えて中国の文化大革命とベトナム戦争があった。

 ベトナム戦争では時代の雰囲気として内心で解放戦線を応援していたが、さすがに小銃でジェット機を打ち落としたという記事には疑問を感じたものだ。飛行機の編隊の形に合わせて兵士を配置し、進路の相当前に小銃弾を撃てばジェットに吸い込まれてエンジンを壊せるというもの

 1月2日には、昭和天皇パチンコ狙撃事件があった。実行犯は奥崎 謙三、1920年2月1日 - 2005年6月16日)はアナーキスト。昭和天皇パチンコ狙撃事件、皇室ポルノビラ事件やドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』で知られる。自らを「神軍平等兵」と称していた

 1月18日 - 19日にかけて東大安田講堂攻防戦。東大内での逮捕者は600名以上。この影響で東京大学の入学試験が中止された





鳥屋の読みは
   「とや」

鳥屋



挙っての読みは
   「こぞ って」

挙って



健気の読みは
   「けなげ」

健気



否応の読みは
   「いやおう」

否応



地均しの読みは
   「じならし」

大音声



地均しの読みは
   「じならし」

地均し



可笑しいの読みは
   「おかしい」

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