未来ユメ日記 by GG

夢、ゆめ、ユメ。未来に向けてユメを語ろう。教育・テクノロジー・地球の未来・歴史・ドラゴンズ・・定年退職を迎えた2012・4・1から、未来に向けてユメを紡ぐ

 11月11日を封鎖の日と思い込んでおられる先生方が、氏以外にも多すぎるのではないでしょうか。

 あの日の主目的は、全校集会にあったのです。
 もちろん全闘委の諸君にとって封鎖は避けることのできない目標ではあったのですが。

 封鎖の意味と限界についてどれだけ議論を行ったか、今でもありありと思いだします。疑問を多く投げかけた私は、全闘委諸君の非難の対象でした。クラブハウスの三階では日々「ナオヤ、ナンセンス」のデモが練り歩いていたほどですから。

 Xデーを11日と決めたのは、それこそ11日の朝の事です。それも決行の一時間ほど前に過ぎません。それまでに、実は綿密な計画が出来ていたのです。

 この歳になっても「ここからは書きたくない」「書いちゃだめだ」と、私の本能がブレーキをかけます。それは機動隊への恐れではありましたが、それ以上に学校当局への畏れでした。
 私たちは、東大や日大、日比谷高校や青山高校での悲惨な非教育的な結末、「措置」を学んでいたからです。
 あの一日の緊張を思い出しながら、「50年近い昔の事で、今さら処分も逮捕もあるまいよ」と自分に言い聞かせながら、書くことにしましょうか。

 迷惑の掛かりそうな人がいたら、早急にお知らせください。
 一人でも「書いちゃだめだ」と言われれば、書きません。

 ここで封鎖についての氏の捉え方の混乱を見てみましょう。

 P13では「旭丘全闘委による封鎖未遂」
 同、「校長室封鎖を図ったが職員の手で、突入生徒を直ちに排除…」
 P25、「校長室封鎖の際も教職員の力で封鎖を解除して、未遂に終わらせた…」
 同、「封鎖未遂の後、直ちに臨時の職員会議をもってアセンブリーにしたのです」
 P28、「10名程度の2年生が乱入し、立てこもった。直ちに多数の教師が乗り込み、実力で排除をした」
 他にもあるようですがこれで十分でしょう。

 ここで問題です。
 封鎖は既遂だったのでしょうか? 未遂だったのでしょうか?
 「突入生徒」が立てこもったというなら、未遂とはいえませんよね。
 そして、排除したのでしょうか?
 
 実は、校長室の窓の外から記録された動画があるのです。それは今は亡きO君が撮影したものでした。
 先に、「一まとまりにして考える」ということの必要性を述べました。
 ここが、まさにそうです。
 第二場面がどのようなものであったのか。いろいろな出来事をバラバラにしてしか考えられない氏の限界を解き明かさなくてはなりません。

 ルネサンスの画家ラファエロの「アテナイの学堂」という絵には教えるものと教えられる者が一堂に会するように描かれています。

 中世に至っても大学は学生や教授の組合みたいなもので、定まった学舎を持っていなかったところも多かったそうです。
 大学によっては学生組合が実権を握っていたり、教授陣の力が強かったりといろいろなパターンがあったようですが、いずれも人が中心で、人間関係が第一にあると考えられていたことが忍ばれます。

 教える者と学ぶ者の学びの関係、そういう歴史を誇り高く踏まえていたはずの旭丘高校が馬脚を現してしまってのが10月5日であり、70年の保護者との話し合いの場所ではなかったでしょうか?
 生徒の登校禁止と登校してきた生徒の門前払い。それが10月5日。
 「学校は県有物であり・・・。公共物を私的に管理者の断りもなく使って・・・」。これを県教委や校長や警察が言うのなら、その立場からの言葉として受け止めることが出来ますが、まさか「進歩的な」教師から聞かされようとは、全くの驚きです。

 たかが数人の生徒が座り込んでいるだけなのに、県有物、法治国家を持ち出していうべきことでしょうか?

 そこには生徒を犯罪者を見る視点しかありません。座り込んだ生徒をそう見るならば、封鎖をした生徒やそのシンパはもっと許せなかったに違いありません。

 では第二場69年11月と、第三場70年3月10日はなんだったのでしょうか?

 前項で述べたとおり、第一場のロックアウトと第四場の70年生徒処分が職員会議方針に合致したものであったということであれば、第二場と第三場は「合致しないもの」であったに違いありません。
 それを、自分の手柄でもあるかのように書かざるを得ないのは、よほど悔しいのでしょうね。

 続きは、また.。

 こうしてみると、第一場のロックアウトと第四場の70年生徒処分は、69年10月3日の臨時職員会議での職員会議方針に合致したものであったのです。

 同時にそれは、例の日高教の資料に沿ったものだったのです。
 もう一度見てみましょう。
 1 10月5日日曜日は登校を禁止する
 2 あくまでも学校の自主解決の方針をつらぬく
 3 学校が警察権力の介入で問題の解決をしようとしない

 なお、3が欺瞞であったのかどうかは議論の分かれるところです。というのは、「学校が」という文言が誰を指しているのかが曖昧だからです。おそらくこの段階では「学校の管理者である校長」の判断を縛る目的があったのでしょう。

 70年の対応では、「県教委の要請や、それによる校長の要請がなくても」「学校は警察導入を要請することがあり得る」という意味であった事が明白です。ご本人がそう書いておられるのですから。
 そして「学校」の意味がだんだん明白になってきました。「校地、校舎、そして教職員(正確には廣林氏に同調する教職員)」それが「学校」だったのです。
 生徒の入る余地はありませんね。

 では第二場と第三場は何だったのでしょうか?

 座り込んでいる生徒の保護者が「子どもがどうしても帰らないと言い張ればどうするつもりですか?」と聞いたら、教師であるあなたは何と答えますか。
 私なら「このままでは警察沙汰になるので、そうならないように一緒に説得しましょう」と答えるでしょう。みなさんも恐らくそうだろうと思います。

 ところが1970年の旭丘では「警察を呼んででも、退去してもらわざるを得ません。県教委に言われて警察にお願いするのではなく、学校の自主判断によって行うのです」と答えたそうです。
 そして最後には保護者が「仕様がない、連れて帰るか」となるのです。

 県教委が警察導入するよりも先に、また校長が導入を決断するよりも先に、教師が警察導入を脅しとして使っているではありませんか。
 生徒や保護者にとっては誰が要請しようと警察は警察。警察に違いはありません。

 これが「正常な教育活動を阻害し、民主社会の秩序を破壊する場合は一定の指導措置を行う」という69年11月の指導方針の意味するものだったのです。

 そして退去させた後を追うように処分を下すというやりかたはどうでしょう。保護者の「仕様がない」という言葉は、学校への不信感を露わにした訣別の一言であったのではないかと思います。

 第四場に戻ります。

 それは自分たちの意に沿わぬ生徒を孤立させ、枯れ切ったところで処分するというやり方でした。
 孤立させるためには、保護者を脅かし、校長とのいわゆるボス交渉で決定して処分してしまい(7月27日の運営会議)、職員会議では事後承認(山の家の最中で、即時の会議は招集できなかったであろう)、事実出校日の朝の職員会議で方針の確認をし、生徒全体にはその日8月15日に経過説明するというあわただしさが書かれています。しかし、運営委員会は7月27日ですよ。8月15日までには相当の日数があるじゃないですか。

 それを出校日の朝、議論も出来ない時間の中で方針の確認をするというのはどういうことなのでしょうか?
 誇り高い旭丘民主主義はどこにいってしまったのでしょう?

 後に赤茶けた、当時の旭丘新聞を読んで「正直言ってさびしい。いやわびしい」と感慨を述べておられるが、なんのことはありません。

 わびしいのはこちらのほうです。
 手続き的にはまるでクーデタのようなやり方。そして注目したいのは保護者のやり取りです。

 突然ですが南京大虐殺です。

 それがあったか無かったのかが話題となり、虐殺された人数も議論の的になっています。
 過去にも述べましたが私の言いたいことは、一人でも殺されたのなら、それは大問題ではないのかということです。
 いつの間にか「三十万人だろう」「いやそれでは多すぎる」「大虐殺と言えるような数ではなかった」というような議論になっています。

 でもね、あなたやあなたの家族や友人が訳もなく殺された時に、一人だったから殺されたというのはおかしいというような論理を受け入れることが出来るのでしょうか?

 この論理は、今後何度も繰り返されることになるでしょう。
 テロの時代が始まるのではないかという予感があります。それを政治的に利用しようという人がいるという予感もあります。
 何から何を守るのかという問いは、今後ますます厳しく問われていくことになるのではないかと危惧せざるを得ないのです。

 保護者は「それでは旭丘の民主主義が泣くよ」と言われたとのこと。
 全くその通り。
 泣きます。
 私も泣きます。

 場所は校舎中央の生徒登校通路。なつかしいあの場所が目に浮かぶ。そして、他の生徒の通学や学習を妨害している訳ではなさそうだ。
 むしろ、だからこそ「処分」ができたのだろうと私は確信している。

 得意げに語られる保護者とのやりとりで氏が述べたと言われることを引用しましょう。
 「これ以上座り込みを許す訳にはいきません」
 「警察を呼んででも、退去してもらわざるを得ません」
「県教委に言われて警察にお願いするのではなく、学校の自主判断によって行うのです」
 「学校は県有物であり、・・・いつまでも公共物を私的に・・・使っていいのですか」
 「それはご都合主義の言い分です・・・法治国家のルールを無法に乱す行為は容認しないと明確に言っているではないですか・・・」
 
 ここで露わになっていることは、教育的な内容ではありませんね。

 座り込みを許すとか許さないとかといういわゆる上から目線。
 県教委よりも先に警察を導入するという構え。
 そして法を盾にとっての生徒への対決姿勢。
 どこにも教育的な姿勢が感じられない、いわばケンカ腰です。

 教育に携わる者として、保護者が「仕方がない、連れて帰るか」と決断するはどのような意味があるのか、お分かりにならなかったのでしょう。
 それを、「35歳の若者(その時の私)でなければ、出来ないことだったかも知れない」と今でも手柄と思っておられるのです。

 第四場を思うと、激怒よりも悲しい思いにとらわれます。

 ハンストが行われたのです。人数は5人であったよう(自分は卒業、させられていたので、推測です)。

 彼らについて「前年度突出した行動をとった2年生の3年生への進級組」と紹介していらっしゃる。「大多数の生徒は・・・見向きもせず・・・教室へと急ぐ」。それを見て「終わったな」と感じ「生徒同士の関係って、こんなものか醒めているんだなー」と一種の寂寥感みたいなものが去来したのだと書いておられる。

 「一般生徒にソッポを向かれると、学校に向かってより牙をむいて立ち向かってくるのは昨年来全国の通例だった」といわれます。これって、これまでの格調高い文からは窺い知れなかった本音でなのです。そして「教師集団は一週間ほど黙認したが、もう限界だと思い始めた」ということです。
 ここに、どのような指導があったのかは、まったく書かれていません。

 そして県教委の方針とそれに基づく校長の要請があり、あとは保護者への哀願と生徒会の抱き込みが得意げに書かれています。

 保護者は「仕様がない、連れて帰るか」と言って、恐らくはそうしたのでしょう。
 それを後追いするように、処分しているのです。
 なんのために? と、疑問を感じざるを得ません。

 繰り返します。
 教師の説得にも、保護者の説得にも応じないから処分したというなら、分からないでもありません。保護者の力で退去させながら、その後を追って処分したのです。

 69,70年度の二年間をひとまとまりに考えると、ステージは4つの山がありました。

 第一場は、69年の10月5日の全愛知高校生決起集会です。これはロックアウトで終わりました。「全校集会でこの方針を説明し、大方の生徒の了解は得られた」とありますが、本当でしょうか?
 少なくとも、氏の考える「学校」とは校舎と自分たち教師であって、必要とあれば生徒は登校を禁止する対象でしかなかったことが明らかです。
 もし氏の言われるように「大方の了解」があったのなら、なぜ生徒の力を信じなかったのでしょうか?
 後に卒業式で「感動的な教師擁護演説」をすることになる私にさえ、氏が門扉越しにどのような言葉を投げつけられたのか覚えてはいらっしゃらないのでしょうか?

 第二場は11月11日からの日々です。これについては、あとで述べることにしましょう。

 第三場が卒業式。
 そして第四場が70年度のハンストへの対応です。

 先ほど69,70年度の二年間をひとまとまりに捉える考え方には賛成といいました。

 歴史を語る人の中にはこの「一まとまり」で考えることの苦手な人が多いように思います。そこから数々の誤解が生じています。

 たとえば明治維新があたかも無血革命であったかのように捉えるのは、江戸城の無血開城を指しているだけです。明治維新という流れを考えないで一場面だけを取り上げて全体を語ってはいけないでしょう。
 琉球へのペリー来航から西南戦争あたりまでを明治維新の時期ととらえるならば、無血でないことはあまりにも明白です。それでは時間が長すぎるというなら、江戸開城の直後に上野で彰義隊との戦争がありさらに戊辰戦争が連なっている点だけでも指摘しておきましょう。

 同じく昭和時代前半の長い戦争の期間もそのうちの1、2ページを取り上げて考えるわけにはいきませんね。
 なぜこのようなことを言うかというと・・・

 28ページに「★69,70年度を乗り切り学校は復活した」とあります。
 この二年間をひとまとまりに捉える考え方には賛成です。

 しかし、70年に2名の無期停学、2名の無期謹慎・校長訓戒、5名の担任訓告が出されたのでした。ところが、29ページには「退学した生徒(自主退学)は2名にとどめることができ・・・」とあり、「大切なことは、旭丘という学校のフレームが壊れることなく1970年代へと引き継がれたことであろう」と自画自賛していらっしゃる。

 そうなのでしょうか?
 私たちは69年に「一人の怪我人も処分者も出さい」という目標を掲げていました。それは「人道主義」によるものではなく、格好よく言えば「旭丘のフレームを大切に」したかったからであり、「お互いが身を守るために」必要なことだったからです。そのために知恵を絞って数々の方法を打ち出していったのです。
 退学者については「自主退学」であって、学校が退学させたのではないぞという責任回避の考えが見え隠れしています。

 広林氏はもしも69年が大混乱に陥ったとしても、後にこのような文を書いたのではないでしょうか?
 「処分者を100名余りだしたが、退学した生徒(自主退学)は50名にとどめることができ、教師の結束によって学校のフレームは壊されることなく後に続いたのであった」と。
 言い過ぎかって? とんでもない。
 36ページでは、東大紛争に区切りをつけた加藤学長にご自身をなぞらえていらっしゃる。ああ、東大ではどれだけの血が流されたことか。

 私は激怒しているのです。

 廣林氏がなにをお書きになろうと、それについて抗議反論をする権利を留保しながら、謝罪を求めたりしようとは思いません。
 しかし事前にお断りしたにもかかわらず実名まで上げて、明らかな誤りを出版されたことを許すわけにはいかないのです。

 しかも、この本が2015年11月29日に出版されながらなんらの連絡もなく、2016年になって別のルートから知らされたことに怒るのは当然の事ではないでしょうか?

 あの年旭丘でとことん悩んだのは「目的の正当性と方法の正当性の矛盾」でした。言い換えると、平和を求めるための武装闘争という矛盾は有り得るか、あっても良いのかということでした。

 また、制服問題がそうですが、大衆的な熱気の中で決定したことが持続しうるかということも悩みでした。兒嶋が悩み、その兒嶋をSさんが「アウトプット無きPC」と蔑んだ私をどうすればよいのでしょうか?

 自分もいくつかのケースを書きたいと思っています。
 しかし、公表すれば匿名であっても知る人には特定出来る可能性があり、書けないのです。

 ホーチミン氏のおかしなところは、民青諸君に渡すものと僕たちに渡すものに違いを持たせていてという事でした。

 民青は民青新聞という学生高校生向けの機関紙を読んでいるのです。

 では僕たちにもそれを読めというのかというと、そうではありません。

 何かの用事で職員室に行くと
 「○○君、ちょっと来てください」と声がかかり、そっと封筒が手渡されたのです。その中身は赤旗です。
 70点しかやらない僕に、おそらく民新よりも高級な機関紙を渡しながら、「セッチャンもカッチャンも、いい子なんだけれど、なかなか目がさめないねえ」「その点、君は頼りにしてるよ」と言いながら秘密めかして、赤旗を手渡してくれたのです。

 ここからが馬鹿馬鹿しい所です。

 私をCとしましょう。セッチャンはA、カッチャンはB。
 Cに渡す時にはAとBをけなし、Aに渡す時にはBとC、Cに渡す時にはAとBがけなされていたのでした。こうして、私たちABCの三人は、直ちに情報交換をして、新聞部の部室には赤旗が三部置かれていたのでした。

 とういうことで民青を除く他は、あくまでもホーチミン氏の評価に過ぎない訳です。
 生徒がどのように分類されていたのかが分かるというものではありませんか。

 好奇心豊かな僕たち高校生は、「実験」でそれを確かめました。
 同じ答えを書くのです。ホーチミン氏が出すのは毎回同じ問題だったので予想すら必要がないのです。
 「憲法第九条についてはこう書こう」、「基本的人権についてはこう書こう」と、試験に臨んだのです。
 その結果を見ると我々がどのように仕分けされているのかが分かりました。

 今では笑い話です。しかし当時は恐ろしいことでした。まるで命の仕分けですよ。万が一共産党が政権を握ったら、どのような仕打ちを受けたことやら。命の仕分けがあったかもしれない。

 ホーチミンと自称していた倫社政経の先生の事を書くと予告していました。
 先に書いたようにテストの点数は三グループです。
 80点グループはいわゆるノンポリ、ノンセクトの生徒たちです。
 90点グループは共産党系のグループ。民青の諸君です。
 で、70点グループは反日共系のグループ。
 ここで気をつけたいことは、そうした分類が決して自己申告では無かったという事です。
 「僕はノンポリです」とか「僕は全共闘系です」となど言ってはいません。民青の諸君については、分かっていたのかどうかは知りません。
 ただし、彼らが自分から「僕は民青です」と述べたはずはないでしょう。それは彼らのルール(党から与えられたルール)で、そう名乗ってはいけないことになっていたからです。しかし、本人が名乗らなくても党の上部からは「誰それは味方だ」という情報がおりてきていただろうことは疑いのない事実だと思います。

 H先生は1969年10月5日について、

 1 登校禁止、
 2 あくまでも学校の自主解決の方針をつらぬく、
 3 学校が警察権力の導入で問題の解決をしようとしない。
 という三項目を誇りとしておられるようです。

 でもこの三項目に於いて、生徒はどこに存在しているのでしょうか?
 私はどこに居場所をもっているのでしょうか?

 生徒抜きの学校という概念が、「何から何を守るのか?」「学校は何なのか?」という疑問を生じさせます。

 しかもフェンス沿いに言われた言葉を覚えていらっしゃいませんか?

 少なくとも後の卒業式の立役者さえ排除された一日だったのです。
 それでも、教師擁護の発言したとしたら、Mさん、兒嶋は阿呆なのでしょうか?

 そういえば、ホーチミンというあだ名の先生がいましたね。政治経済の先生で試験問題は固定していた。不思議なことに彼は3種類の点しかつけないという噂でした。事実、90点グループと80点、70点グループがある。私たちは70点グループ。いわゆるノンポリは80点、ホーチミングループは90点でした。
 でもね、彼は分厚い封筒をくれていたんですよ。そこが彼を分かりにくくさせている。彼の傘下に配る新聞とは違うモノを僕たちにはくれたのです

 制服の私服化についてはまた述べましょう。69年に、それがどのように議論されたのかという事を。
 また、封鎖について「校長室封鎖が教職員の力で封鎖を解除して、未遂に終わらせた」という手柄話についても語らねばなりません。そもそもなぜそれが69年の11月11日であったのか、ご存じないでしょ?また、新聞や放送が飛び込んできたわけや、県教委が激怒した理由もご存じないでしょ。
 ここまで書かれたら、私も書きます。69年。
 そういえば問題の文部相見解、文部次官通達がひっそりと削除されましたね。H先生もあの時にとことん抵抗に組していれば英雄だったのにと思えますね。

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