未来ユメ日記 by GG

夢、ゆめ、ユメ。未来に向けてユメを語ろう。教育・テクノロジー・地球の未来・歴史・ドラゴンズ・・定年退職を迎えた2012・4・1から、未来に向けてユメを紡ぐ

 10月5日のロックアウトについてまた書きます。
 老恩師はロックアウトではないという「名称論争」に引きずり込もうとしますが、言葉にはこだわりません。
 日本語の面白いところは語彙がやたらと多いことです。特に事件や歴史的な出来事についてそれが言えます。そして、その出来事についての評価がいつのまにか語彙の使い方の議論になってしまって、話が分からなくなってしまいます。これは面白いというよりも困ったことというべきでしょうかね。

 戦争、戦役、紛争、事変、戦い、乱、事件・・・。暗殺、変、謀殺、だまし討ち、闇討ち・・・。撤退、敗退、玉砕、転進・・・。実にいろいろな語彙が使われています。ところが・・・
 西南戦争の両軍の死者は1万5千くらい、日清戦争では3万4千人の死傷病者があったそうです。これらは戦争と呼ばれています。
 一方、ノモンハン事件では2万弱の死傷者があったというのに「事件」なのです。変だと思いませんか?
 そこには当時の軍部の「公表したくない」「大戦争だと思われたくない」という意図が生きているわけで、歴史の検証が過去の亡霊に縛られていることになってしまいます。
 ノモンハン戦争、佐賀戦争などと統一した呼称を使うべきでしょう。

 ということで、10月5日をロックアウトと呼ぶかどうかについてはこだわりません。
 「学校を守るために」という理由で、登校して来た生徒を締め出したことさえ、歴史的な事実として確認されれば十分です。
 さあそこで、学校とは何かという問いが生じるわけです。
 あなた方が守ったのは「校地校舎と自分たちだけであって、学校を守ったのではなかったよね」という気持ちが、「何から何を守ったのか?」という問いなのです。
 建物と運動場とを教師が守ったのだ、それが旭丘を守ることじゃあないかといったとたんに、生徒を忘れてしまったことに、まだ気づかないのでしょうか?
 学校って、一体なんなのでしょうか?

 久しぶりの投稿です。
 「とうこう」と打ったら登校が出てきたので、登校拒否という言葉を思い出してしまいました。登校拒否を不登校と言い換えて、なにか状況は変わったのでしょうか?
 確かに格差拡大で貧困のために登校できない子は、拒否ではありませんがね。登校不能ですね。
 しかし気持ちの根底には「拒否」という心情もあるのではないかと思われます。

 ところで、今日、例の大昔の恩師から電話がありました。
 本を出したことも、断りなく実名を公表したことも、私が「違います」と指摘したことへの変更もなく、明るい声での電話でした。
 困ったものです。


 最近、私の投稿を「楽しみにしているよ」と言ってくださった方がいらっしゃいます。
 それなのに、なかなか書けなくて申し訳ないことをしています。

 この間の私にとっての大事件は、40年ぶりに友人に会ったこと。それは先週の日曜日のことでした。彼は長らく自民党の参議院議員をやっていて、先回の選挙前に勇退した人です。なんだかとんでもなく偉い職についていたということですが、私の態度は三歳先輩に対するくらいのものだったので、一緒に会った人がヒヤヒヤしていたようです。
 「なんだお前、自民党議員と友達か?」という声が聞こえてきそうですが、そんなことは気にしませんね。私は。
 だからいつの間にか右から左からたくさんの方々がお付き合いをしてくださる。ありがたいことです。
 見た目や党派で人を仕切るのは苦手です。嘘のない人、一生懸命やっている人、人を押しのけてでも自分だけが良い恰好をしない人などとは親しくなりたいと思っています。

 例の老いた恩師から、電話の中で「君こそ誰よりもセクト的だ」といわれてしまいました。
 彼から見ればそうかもしれません。しかし、パルタイという超セクト的な生き方をしてきたその彼からセクト的と呼ばれるのは、どう受け止めればよいのでしょうか?
 褒められたのか、叱られたのか、訳が分かりません。

 実習に不安を感じている学生に送る言葉。

「実習を楽しく過ごすために! 今日からの準備」

 1 笑顔       
 2 挨拶
 3 正しい言葉遣い
 4 早寝早起き
 5 体力と持久力
 6 指導することを実践する
 7 メモで観察力
 8 日記と文章力
 9 スマホ?ゲーム?
 10 読書、実力の充実

 番外 バイトの魅力と限界
 番外 連絡と報告、大人の常識
 番外 履き物、服装、化粧、髪と爪

 というような事を書こうと思うが、他になにかありましたら是非教えてください。

 先にS君の質問の嵐について書きましたが、それを読み返しながらもう一人のS君を思い出しました。

 そのS君も質問の嵐を浴びせてきました。
 集会が続く日々のある昼休みに彼に呼び出され生徒会室で一対一で話し合ったというか、尋問を受けたというか、緊張の一瞬でした。

 もし流血事件が起きたとしたら、1969年の11月の13日か14日かだったでしょうね。加害者が彼、被害者が僕という訳です。

 彼が持っていたいかにもダサい学生鞄の中にはテープレコーダーが仕込まれており、同じくそこには包丁が隠されていたのですから。(ウオークマンが世に出るのはその10年後のこと)コードを垂らしてコンセントに指し、スイッチを入れておいて僕を呼び出したのでしょうか。そこのところは良く分かりません。

 幸い彼の尋問にクリアーし、カバンの中身を見せられた時には、人間不思議なものです。なんの感慨もなく、冷や汗が出るのでもないのですね。僕は生き延びて集会に戻ることになりました。

 バッチ問題は一定の話題になったのだったかもしれません。
 制服には教師たちは敏感でした。

 そのこともあって、69年の日々には一挙に決議をして校則を変えてしまおうという誘惑がありました。しかし、そうはしなかったのです。
 これも一種の守りの姿勢だったかもしれません。が、決議で水面下に引き上げてしまうと、いつか反動によって私服化の動きが正式に潰されるのではないかという考えがありました。せっかくじりじりと制服フリーの動きが始まっているのだから、このまま自然な流れに流れに任せてしまおうという事です。
 流れという実態があるのに、決議やルールという抽象的なレベルでの動きを加えると、その抽象的なレベルが覆された時に実態までもが回れ右となる。そうなったら次は何年先になるかわからないじゃないかという考えです。

 今にして思えばだからこそ長年に渡って私服登校という実態が積み上げられ、相当なエネルギーを注がないと後戻りさせられないような伝統になってしまったなと思わざるを得ません。
 それにもう一つ。生徒が一丸とならなくてはいけない時に、対立を生むかもしれない話題は極力避けていきたいと思ったものでした。

 制服の自由化の問題については、それ以前に一つの問題がありました。襟章のカラーの問題です。それまで全校が海老茶色の襟章だったものがいつの間にか学年別の三色カラーに変えられたのです。それは明らかに生徒管理のしやすさを意図したものでした。

 私は抗議のためというより、面倒くさいという気持ちから自分のバッチを変えることはありませんでした。
 先生たちからは「お前は何年生だ」というよな言葉をかけられた覚えがありますが、それ以上の指導もなく、逆に生徒の側からの問題提起もなかったように思います。

 そんなことがあったので、彼らとO君が私服で登校した時も、ちょっとした問題提起としか受け止める頭がなく、大問題とは感じなかったのです。

 なにしろバンカラな学校の事、体操服などは半共有でそこらにある物を使い、調達が遅れると巨大なカギザキで腹が丸見えのようなものしか着られないというありさまでしたから。
 そういえば体操のジャージは学年別の色だったのか、覚えがありません。

 「あなたたちは、何から何を守るつもりなのか?」
 「これはロックアウトだ」
という問いかけに対して返ってきた答えに、皆さんはどう思われるのでしょう?

 ある先生は、言葉もなく下を見ておられました。ためらいがあったのでしょう。

 しかし別の教師はこんなことを言いだしたのです。
 「お前たちを仲間だと思ったことはない。それはここがエリート高校だからだ」「お前たちは今は民主主義とか革命とかほざいているかもしれんが、数年もたってみろ」「官僚になったり、資本主義の手先になったりするんだよ」「お前たちには未来が見えないかもしれない。だが俺には見える」「そうやって、今度は俺たちを見下げて顎でこき使って、あざ笑うような人間になるのさ」

 こうした昨日までとは打って変わった言葉に、生徒たちは「本音」を感じざるを得ませんでした。そこで生まれたのが、当然のことながら不信感です。彼の頭にある学校とは、不良以上に不実な生徒を不本意ながら育て上げるという任務を背負った学校でしかありません。しかし、それを彼は守ろうとしているのです。

 何十年もたって、その彼は「生徒のために」と書いておられます。それは年月がもたらした反省なのでしょうか? それとも虚飾なのでしょうか?

 話がとびました。S君の疑問です。延々と続きます。当時の僕たちは多かれ少なかれ疑問をひねり出して相手に投げかけ、相手の言葉におかしなことがあったりするとそのおかしさを抉り出しといった作業を行っていました。

 それは紛争の場面だったからそうしたのではなく、こうした理屈っぽい生徒たちがそこにはいたのです。一日中がこうした思考作業の山。言い換えれば批判と反批判。ですから天から降ってくるような結論を頑として譲らない態度では仲間に入れなかったのです。男女もない、学年差もない。それが「旭丘民主主義」だと皆が思っていたのだろうと、そう思うのです。

 最近の若い人が「批判」と非難を取り違えていることに驚かざるを得ません。学会の多くにおいても「批判」が遠慮されているように感じますが如何でしょうか?疑問を表明するだけで壇上や平場から白い目で見られるというのは、一種の暗黙のヘイトスピーチで、「私が正しいというから正しいのです」「その質問は良い質問ではありません」というお偉いさんの答弁も民主主義をないがしろにするものですね。

 延々と続く疑問や反論に、まずよく聞いて一つ一つを噛みしめて、時には自説を曲げず、時には自説を変更し、時には保留しながら日々を過ごしていたのです。そこには「テーゼ」を「科学的」「真理」と垂れ流すアカハタの入る余地はなく、門扉越しに罵倒するような態度も許されないものでした。

 生徒と教師が鉄格子を隔てて話し合う光景は、まともな情景ではありません。それは刑務所とか鑑別所での面会場面を思い出させます。対立する国同士の国境や動物園を思い浮かべることも出来るでしょう。もっとも動物園では話し合いはありませんが。

 そんな光景が1969年10月には高校の正門で繰り広げられていたのです。
 裏門や通用口も見事に固められていました。格子の中に居るのが先生たち。生徒は道路から中に入れてもらえません。

 「塀を乗り越えるか」という声もありましたが、それは機動隊の導入を招くだけです。中にいる教師たちの発想は「県教委や校長の判断での警察導入は許さない」ので、それが行われる前に「主体的に機動隊を導入しよう」というものだったのですから。
 生徒たちにとってはそんなことはどうでも良いことです。誰が呼ぼうが警察は警察に過ぎません。
 「先生たちは俺たちを敵だと思っているのだ」と誰かが言いました。「彼らにとっての学校って何なのだ?」「奴らは自分のことしか考えていない」と、道路上に放置された生徒たちは気付いていきました。そこで発せられたのが、あの問いです。

 「あなたたちは、何から何を守るつもりなのか?」
 「歴史的にいって、これはロックアウトとしか言いようがないだろう」
 「生徒を立ち入り禁止にして、排除することが正常化なのか?」

 こうした疑問に対して、頑なな回答が鉄格子の向こうから返ってきました。

 もう一つきになったことが学生カップルの会話です。

 彼が「中にするの?」と聞くと、彼女が「小にしたわ」と答えていました。
 「中学校の実習で子どもがいう事を聞いてくれなかったし、仕事もきつかったから」
 「きついのは嫌だよな」
 「小学校なら多少は楽だと思うし、簡単でしょ教えることが。それに小さい子なら何とかなるからね」

 試験対策本を前にして交わされていた言葉に先輩として何か言うべきだったでしょうか?

 最近の学生のどれくらいかは知りません。でも少なくともカノジョは、楽かどうか、簡単かどうか、思うようになるかどうか、小さい子は支配できそうという基盤に立って教職を選ぼうとしている訳です。
 そんなものなのですかね?

 今日は勤務のない日だったので、思い立って母校に行ってきました。

 目的は教育実習についての書籍の購入です。教育を冠する大学なのでそれらしいテキストがあるだろうと思ったわけです。以前はそうでしたから。

 ところが収穫なし。というよりも書籍販売部分が大幅に縮小されて軽い小説や雑誌が大きな顔をしており、それと同じくらいの量の就職対策、教員採用試験、公務員試験対策の本が山積みになっていました。教育関係の本もありましたが、7日で板書かうまくなるとか〜〜学習はこうやれば良いとかクレーマー対策はどうするといったハウツウものが大半でした。
 本離れが言われて久しい中、生き残った本の多くは捨てても良い本なのですね。
 採用試験に受かればその関連図書は不要でしょう。板書が出来るようになればその本も捨てられます。あるいは、相手をやっつけるためのガイド。試験や黒板や保護者に対抗するための近道を説く本。

 そんなものなのですかね。

 抽象的なスローガンが声高に叫ばれる中、妙に現実的な疑問を投げかける生徒がいました。
 「封鎖? やろうじゃないのよ。やりましょう」「どこにする?職員室?」「校長室もいいじゃない」「で、水はあるの?トイレはどうする」「保健室じゃあ、なんだかカッコ悪いよね」、こうなると疑問の山で責めつけるのがS君の特技でした。
 こうなると「そもそも論」とか「あるべき論」はたじたじです。演繹と分析の違いという事です。
 封鎖推進派の諸君は「じゃあ、図書室です」「あそこを拠点にしましょう」
 「分かった。図書室だね」「いいじゃない。でも水道はあるのかなあ」「トイレは、確かにあるよね。四階が妥当というものだね」
 「ありがとうございます。四階の図書館をターゲットにします」
 「でも、待ってよ」「何日間封鎖するつもりかしら」「日数が増えると食料も必要だけど、どうなんだろう。外から差し入れできるのかしらね」
 「それは、支持が集まるはずですから」
 「支持とか連帯とかというんじゃないんだよね」「物理よ。物理的なこと」「良い?四階を封鎖するでしょ」・・・S君の、疑問は延々と投げかけられるのでした。

 ですから封鎖をするかしないかが、学生生徒の側からするととても大切なハードルだったのです。一方、封鎖をいかにさせないかが文部省県教委学校当局の側にとっての課題でした。封鎖があれば紛争校になってしまうのですからそれを防ぐのにやっきになるわけです。

 地方のいわゆるエリート校であると自他ともに認められていた旭丘は「なんでもかでもリードするのが自分たちだ」という潮流というか自覚というような風潮があって、封鎖についてもそう覚悟していたのではないでしょうか。

 言い換えれば、「封鎖はやらないかんだろうな」「自分がやるか誰がやるかは別として」そというようなところまで来ていたのではないでしょうか。

 校長先生や教職員も「いつか来るだろう」と予感されていたのではないでしょうか。
 もっといえば「やるなら、うちがやらねばならない」「うちに違いない」と、みんなが追い込まれていたのではないでしょうか?

 不思議なことに、それぞれの時代の「活動」はいつの間にかパターン化してアナロジカルな軌跡をたどります。

 これは共鳴とか同期といったものなのでしょうか。
 あるいは、活動の権威化とでもいうべきものなのでしょうか。

 当時の大学高校では、特に東大安田講堂以降では、封鎖という言葉が一つのカギを握ることになりました。「封鎖をしないと学園紛争の仲間に入れない」とでもいうように。

 そう考えると活動にはモードとがあり、一定のイニシエーションを経ることによって連帯の輪に入ることができるという共同の論理が働いていたことになります。

 あるいは無意識的に相似行動をとるという習性があるのかもしれません。相対する人の一方が右によけると、他方もそれに合わせて左によけるので二度三度とぶつかりそうになるというあれです。

 問題提起、それに対する無視あるいは反動、封鎖、機動隊導入による封鎖の解除と活動家の排除、正常化という反動の徹底。
 それが当時のパターンでした。

 昨日のこと名古屋経営短期大学のオープンキャンパスでS先生から「一連の文章はなんなのですか?」というご質問をいただきました。

 時は1969年と70年、場所は全国の大学と高校、今回の場合は旭丘高校です。そこでの出来事を巡ってH先生が書かれた回想録があまりにもいい加減なので、私は怒ってしまったということです。これまで封印してきた記憶を全面開放してしまおうと企てています。
 では、何のためにそんなことをしたのか?という問いに答えることは、かなり面倒なことです。各大学高校での「紛争の発端」は「医学部問題」「学費の値上げ問題」「70年安保改定」「反管理教育」「校則」「制服」「ベトナム反戦」などと多様でした。「高校生の政治活動禁止」にかかわるものが私たちの学校でのテーマでした。

 しかしこうしたテーマは、活動の正当性を主張する一種の言い訳のようなものだったかもしれません。戦後25年が経って、団塊の世代がそのエネルギーを発散したともいうこともできるでしょう。68年にはフランス五月革命が起きたりして、「70年に向けて若者たちのエネルギーが政治的に高揚した」と一言で言ってしまうのは簡単ですが、私はこうした紋切り型の論理よりも自分自身の物語を綴っていかなくてはならないと思っています。

 ま、それも言い訳にすぎないとは思いますが。

 氏の文章から引用するだけではなく、他に証拠はないかと探すと、実は映像記録があるのです。証拠として十分でしょう。

 それはO君が校長室の窓の外から撮影した8ミリ映画でした。彼は後に本格定期に久高島のイザイホーの記録映画をとることになるのですが、この自分はまだ8ミリ映画です。それは在学中に編集上映されました。ご覧になった方もいらっしゃるのではないかと思います。この映画についてはいつか述べることになるでしょう。かなり変わった「記録映画」でした。そこには彼のポリシーと、あの時代の我々のせっぱつまった想いが反映しているのではないかと思います。

 私の思い出では、突入に成功しています。直後に隣室から先生たちがとびこんできてもみあいとなり、見事に脱出しきっています。封鎖宣言があったかどうかは不明です。

 こうした議論の中で彼は言いました。「封鎖をしなくてはならないという方針は諒解した」「しかしだ、それは時間的、空間的な規定があるのか」「そんなものはないだろう。だったら微分で行こう」
 その意味は、誰かが補完しなくてはわからないものでした。

 「微分ってなんだ?」
 「一年でも一日でも封鎖は封鎖という事か?x軸の長さは決まってないんだろ」
 「どんどん短くして、一時間でも一分でも封鎖だなあ」
 「じゃあ一点にする手もある」
 「ああ、封鎖はできるし、機動隊は導入しようがない」
 ということで、ああいう方針になったのです。突入し、封鎖を宣言し、即時の撤退を「自主的に行う」という方針です。

 解除したとか排除したとかという前に、瞬間的に退去することになっていたのです。ただし、先にも言いました。疎漏があったのです。

 校長室の様子を見に行った生徒が、その隣で会議が開かれていたことまでは把握できなかったのです。
 で、封鎖宣言をする余裕があったのかなかったのか。突入生徒の名誉のために氏の文の一部を引用して「宣言した」と思っています。なにしろ「立てこもった生徒たちを・・・」と書かれているのですから。

 『彼の一言で「封鎖のありよう」が決まった。それは「微分」の講義のようだった』と述べました。
 クラブハウスでの連日の話し合いの中で封鎖についてが議論されていました。

 やるか、やらないか。やるとしたら、いつ、どこで、いつまで。補給はどうするか。機動隊が導入された時の対応はどうする。
 負け戦になることは100%分かりきった事です。しかも警察も県教委も職員会議も、封鎖への心構えは十分に出来ています。

 しかし、それでも封鎖はやらねばならないという意見が支配的でした。氏が「全闘委」「シンパ」「一般生徒」と分けて考えておられる生徒たちは、そうした分断を最も警戒していました。

 教師には区別したいという願望があるようですが、それは一種のスペクトラムであって、ここからこっちが「全闘委」、そうではないのが「一般生徒」となど気持ちよく区切ることが出来るものではないのです。

 当時の旭丘高校というのは多士済々。どんなことにでも専門家のような生徒がいるというおかしな学校でした。おかしなという言い方はなんだか変に思われる方もあるでしょう。

 しかし、フランス語の小説を読む生徒とか、定期試験でほぼ満点をとる生徒とか、お経に詳しいが映画を撮る、不思議なコンピュータ用語(アップル兇糧売は1977年のことに注意)を並べ立てる、漢文なら教師よりも詳しい、歴史にやたらと詳しい、毛沢東に詳しい、マルクスエンゲルスに詳しい、戦略戦術にくさしいといった「詳しい系」の生徒がいるかと思えば、野球強豪校との試合でホームランを打った、ボートで全国大会出場、ラグビーでやたらと強いといった「強い系」や、法学博士、経済学博士、論理学博士、物理学博士としかいいようのない生徒がいたのです。

 しかもばらばらに活動するいまでいう「おたく」ではなく、政治的な問題にも関心があってみんなで話し合うことが出来たのです。
 おかしな生徒たちでしょ?

 中には、とにかくやたらと冷静で、自分からは発言しないけれど、大切な所で重要なことを言うという生徒がいました。
 彼の一言で「封鎖のありよう」が決まったのではなかったかと思いだされます。まるで「微分」の講義のような話でした。

 ズバリ、言っておきましょう。当たり障りのない所で。

 封鎖は、突入して封鎖宣言したとたんに自主解除というか退去するという計画だったのです。(それ故に、解除しただの排除しただのという手柄話は全くの無意味なのです。しかし、一つだけ疎漏がありました)

 封鎖部隊は、魁です。いわば名誉あるアウロラ号だったのです。
 同時に、封鎖実行を全校に触れ回るというグループがありました。
 同時に、放送室を確保するというグループがありました。
 封鎖の次は、放送室確保と生徒会長による全校放送です。それに気付いた先生もありましたが放送室には入れません。多くの生徒が入り口から放送室までなんとなく密集していてラッシュアワー状態だったのです。みんなが放送室に向かって殺到していたので、先生がそれをかき分けて放送を止めさせるまでには至らなかったのです。ですからラッシュがあっただけでもみあいはなかったでしょう。

 でも、それはそのような計画が着々と進んでいただけなんです。

 別の生徒たちは、校長室の様子を8ミリカメラで撮影する者あり、県教委に電話する者あり、新聞社や放送局に電話する者あり、計画的にあるいは自主的にそれぞれの特技を生かし、覚悟をもって、行動していたのです。

 すべての主目的は全校集会の成立です。それが出来なければ、我々は「正常な教育活動を乱した者」として、処分の嵐に見舞われたことでしょう。
 70年のハンストの諸君のように。

 どの役割を誰が果たしたのか。だれが計画の中で割り当てら、だれが自発的だったのか、ああ、名前は忘れても顔が浮かんできます。
 封鎖が未遂か既遂か。誰が解除したのか、退去撤退したのか。そんなことは、全くどうでも良いことだったのです。

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